平安時代好きブロガー なぎ です。
2022年 5月のこと。
京都市上京区、廬山寺の南西にある
清和院御門から京都御苑に入りました。
清和院御門を入ったあたり(京都迎賓館の南)から
仙洞御所の北池を含む北半分あたりまでが
藤原道長が所有した邸宅のひとつである
「土御門第(つちみかどてい)」跡に相応するのだとか。
土御門第は
土御門大路(上東門大路)の南、
近衛大路の北、
東京極大路の西
に位置していました。
道長の三女・威子が後一条天皇の中宮となった時に
この邸宅で行われた祝宴において
「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることも無しと思へば」
という和歌を詠んでいます。
少し場所がわかりにくいですが、
現在、京都迎賓館南側の道沿いに
「土御門第跡」を示す駒札が設置されています。
駒札は設置後、過去に1~2度(?)新しくなったと思うのですが
風雨に晒されてまた文字が見えづらくなりました💦
↓ 駒札より
土御門第跡
平安時代中期に摂政・太政大臣となった藤原道長の邸宅跡で、
拡充され南北二町に及び、上東門第、京極第などとも
呼ばれました。道長の長女彰子が一条天皇のお后となり、
里内裏である当邸で、後の後一条天皇や後朱雀天皇になる
皇子達も、誕生しました。「この世をば わが世とぞ思ふ
望月の 欠けたることも なしと思へば」の歌は、この邸で
催された宴席で詠まれたといいます。
土御門第は
元々は、右大臣源重信の邸宅であったのを
重信の姪である源倫子が伝領し、
倫子の夫である道長の所有となったのだそうです。
※源重信ではなく、重信の兄で倫子の父である雅信の邸宅だったという説も。
道長と倫子の長女・彰子が土御門第で
敦成親王(のちの後一条天皇)や
敦良親王(のちの後朱雀天皇)を出産した時のことは
『紫式部日記』に記されています。
ちなみに
藤原道長が晩年に東京極大路の東に建立した
「法成寺(ほうじょうじ)」は「土御門第」の隣りでした。
【参考】
紫式部顕彰会 編纂『京都源氏物語地図』思文閣出版 2007年
大津通・池田尚隆 編『藤原道長事典』思文閣出版 2017年
倉本一宏 著『紫式部と京都』 吉川弘文館 2014年
藤原道長事典―御堂関白記からみる貴族社会― 大津 透 思文閣出版
紫式部と平安の都 (人をあるく) 倉本 一宏 吉川弘文館