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【PICK UP】 「金印」出土の志賀島と志賀海神社<福岡市東区> その2 

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※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2004年)
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現況と異なる部分も含まれていることと思います。ご了承くださいませ。




「金印」出土の志賀島と志賀海神社

その1の続きです。


 われは忘れじ志賀の皇神
 志賀海神社




●所在地:福岡市東区志賀島877
●交通 :西鉄バス「志賀島」下車 徒歩10分

志賀島の東南にあり、万葉集にも詠まれている古い神社です。
「龍の都」・「海神の総本社」とも呼ばれ、海上安全の神として崇敬されています。




≪福岡市教育委員会による看板より≫

志賀海神社と文化財

 志賀海神社は綿津海(わたつみ)三神を祀り、古来より海の守護神として信仰されてきました。海上交通の要所である玄界灘を臨む博多湾の入り口に鎮座し、海人部(あまべ)の伴造(とものみやつこ)として著名な阿曇(あずみ)族に奉祀されました。大同元年(806)には阿曇神に神封八戸が与えられ、貞観元年(859)には志賀海神に従五位上、また元慶4年(880)には賀津万神(志賀島勝馬の祭神)に従五位下の神階が授けられています。平安時代の『小右記』には志賀海神社社司の対宋交通が記され、中・近世には大内氏、小早川氏、黒田氏の加護を受けていたことが当社に伝えられた文書(福岡市指定文化財)によってわかります。

 社蔵の鍍金鐘(国指定重要文化財)は高麗時代後期の特色がよく表れ、境内の完存する石造宝篋印塔(福岡県指定文化財)は銘文から貞和三年(北朝年号1347年)に造立の時期が考えられます。

 この神社の神事のうち、1月下旬に厄疫退散と五穀豊穣、豊漁の意味を兼ねて行われる「歩射祭」、4月15日と11月15日の春秋に神功皇后伝説にちなんで狩漁を演じる「山ほめ祭」、10月初旬の夜間に遷幸・遷御と芸能が奉納される「神幸行事」はいずれも福岡県の無形民俗文化財に指定されています。



*参道沿いには万葉集に収められている「ちはやぶる鐘の岬を過ぎぬとも・・・」の歌碑があります。



 ちはやぶる鐘の
   岬を過ぎぬとも
 われは忘れじ
   志賀の皇神

※志賀の皇神(すめがみ)=志賀海神社の御祭神です。


≪看板より≫

 万葉歌碑(志賀島第一号歌碑)

ちはやぶる鐘(かね)の岬を過ぎぬとも
 われは忘れじ志賀の皇神(すめがみ)

   (巻七・一二三〇)


「航海の難所である鐘の岬を過ぎたとしても、わたしは海路の無事をお願いしたこの志賀の神様を忘れません。」という意味の歌です。

ちはやぶるとは狂暴なとか勢いが強い意味とされ、鐘の岬は現在の宗像市鐘崎(かねざき)の織幡(おりはた)神社が鎮座する岬で、対峙する地島(じのしま)との間の瀬戸は航海の難所でした。志賀島から船出して奈良の都へ向かう官人が詠んだものです。



(この地図は私が作成しました)


私が上記の歌のことを知ったのは『源氏物語』がきっかけでした。


この歌は、『源氏物語』<玉鬘>巻において、玉鬘と乳母(めのと)一家が筑紫へ向かう船旅の場面にて、乳母の「口癖となった言葉」のもととなった歌なんです。


 金の御崎過ぎて、「われは忘れず」など、世とともの言種になりて

“船旅で鐘の岬(福岡県宗像市鐘崎にある岬)を過ぎてから乳母は万葉集の「ちはやぶる金の岬を過ぎぬとも われは忘れじ志賀の皇神」という歌を思い出して、『われは(都から離れようとも玉鬘の母である夕顔のことを)忘れず』などと、明けても暮れても口ぐせになって” 


と作中に書かれているんですよ~。
この歌を知ってから、志賀の皇神を祀る志賀海神社を訪ねてみたいと思っていたんです♪



志賀海神社 楼門



境内には雌雄の鹿の像があります。


鹿角庫(ろくかくこ)
鹿角庫の中は、鹿のツノがぎっしり収められていました。


≪看板より≫
その昔、神功皇后が対馬にて鹿狩りをされその角を多数奉納されたことが起源とされる。
鹿の角は、祈願成就の御礼に奉納され、中にはウキを付けて海に流されてきたものを漁師が拾い上げ奉納したものなどがある。現在では約一万本以上を数える。

※志賀島の地名は「鹿の島」ではなく「近い島」が「チカシマ→シカシマ→シカノシマ」と訛ったものである




拝殿にて参拝。


裏手には摂社がたくさんありました。
木々に囲まれていながら潮騒の聞こえる厳かでとても心地よい神社でした。




【PICK UP】 斉明女帝の朝倉橘広庭宮と木の丸殿 <福岡県朝倉市> その1

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※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2004年)
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 斉明女帝の朝倉橘広庭宮と木の丸殿



“三連水車”のある街として知られる福岡県朝倉市は、福岡県の中央部にあるのどかな田園地帯です。
この朝倉の地に短い期間ですが、かつて天皇が住まわれたことがあったと伝わります。



660年(斉明6年)、東アジアでは唐・新羅軍が百済を攻略しました。朝廷は朝鮮半島へ百済救援軍を派遣することになり、指揮のため斉明天皇とともに筑紫へ赴いたのです。
斉明天皇こと宝皇女は、第35代皇極天皇として即位したのち、弟である軽皇子<孝徳天皇>に譲位します。そして孝徳天皇の崩御後、再び天皇の位に即いた女性です。後の天智天皇・天武天皇の母でもあります。
 
斉明天皇以下、朝廷の人々は、661年(斉明7年)3月、娜大津<なのおおつ=現在の福岡市>に至り磐瀬行宮(いわせのかりみや)に坐し、5月9日に朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)に遷ったのでした。



『日本書紀』によると、この朝倉橘広庭宮には、すでに百済での敗戦〔白村江の戦い:663年〕を暗示させるかのような記事がうかがえます。
<原文は漢文>


 五月の乙未の朔の癸卯に、天皇、朝倉橘広庭宮に遷り居します。
 是の時に、朝倉社の木を斬り除ひて、此の宮を作りし故に、神忿りて殿を壊つ。亦、宮中に鬼火を見る。是に由りて、大舎人と諸の近侍、病みて死ぬる者衆し。


朝倉橘広庭宮を作る際、朝倉社の木を切ったため神が怒り、宮殿を壊したといいます。
朝倉社は、恵蘇八幡宮もしくは「延喜式」神名の麻●良布(まてらふ)神社に比定されていますが、詳細は不明です。
(●=“氏”の下に“一”のある字)
また、宮中には鬼火が出たため、病気になって死亡者が多く出たとあります。そして・・・


 六月に、伊勢王、薨せぬ。
 秋七月の甲午の朔にして、丁巳に、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。


同年6月には皇族の伊勢王が薨じられ、7月24日には斉明天皇までが崩御されたのでした。
8月1日に、皇太子である中大兄皇子<のちの天智天皇>は、母である斉明天皇の柩に付き添い、磐瀬行宮<長津宮>へ戻ります。そこでもまた怪異が起こります。


 是の夕に、朝倉山の上に、鬼有りて大笠を著て、喪の儀を臨み視る。衆、皆嗟怪ぶ。


この夕方、朝倉山<麻●良布(まてらふ)神社の背後にある東西に連なる山々>の上に鬼が現れ、大笠を着て喪の儀式を見守っていたのです!衆人はみな、アアッと不思議に思ったのでした。


5月~7月までのごく短期間の宮殿でありながら、『日本書紀』には怪異の多い宮として記されている朝倉橘広庭宮…。
その宮跡は明確にはわかっていませんが、福岡県朝倉市内と考えられています。



今回は福岡県朝倉市にある「橘の広庭公園」(朝倉橘広庭宮跡・伝承地)をご紹介いたします。



 朝倉橘広庭宮跡?
 橘の広庭公園


「橘の広庭公園」にある『橘廣庭宮之蹟』と書かれた石碑。

公園そのものは日本書紀に書かれているような、おどろおどろしい感じはしませんでした。



≪教育委員会による看板より≫

あさくらのたちばなのひろにわのみやあと
   朝倉橘広庭宮跡

所在地 福岡県朝倉町大字須川


歴史・背景

4世紀末、朝鮮半島は百済・高句麗・新羅の三国に分割され、7世紀に至るまで和戦を繰り返していたが、660年7月、百済はついに新羅・唐の連合軍に亡ぼされ、同年10月、かつてから親交関係にあった日本へ使者を遣わし救済の要請をしてきた。斉明天皇と中大兄皇子らは、その要請を受け入れ、救済軍を派遣することを決定した。

翌661年1月6日、天皇は、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)、中臣鎌足らと共に難波の港から海路筑紫に向かい、1月14日四国の石湯行宮に到着し、3月25日那大津(博多)に至り、磐瀬宮(三宅)をへて5月に朝倉橘広庭宮に遷られた。しかし天皇は滞在75日(7月24日)御年68歳で病の為崩御された。

現在、朝倉橘広庭宮の所在は分かっていないが、地元の伝承では、「天子の森」付近だといわれており、本町恵蘇宿の恵蘇八幡宮の境内付近には、中大兄皇子が喪に服したといわれている「木の丸殿跡」や斉明天皇の御遺骸を仮安置したといわれる「御陵山」が存在する。




公園内には「橘(タチバナ)」が植えられていす。ちょうど実がなっていました♪




朝倉橘広庭宮跡<伝承地>の確認のため、長安寺を手がかりに1933年から数年にわたって遺跡の調査が行われたそうです。

≪「橘の広庭公園」内にある長安寺廃寺跡の案内看板より≫

ちょうあんじはいじあと
県指定史跡 長安寺廃寺跡 

所在地 福岡県朝倉町大字須川字鐘突1271~1306
指定日 昭和38年1月9日


奈良~平安時代の古代寺院跡で、古くは朝鞍寺、朝闇寺と呼ばれていた。1933年の発掘調査から多量の須恵器、土師器、瓦などが発見された。また「大寺」「知識」「寺家」などの墨書土器が発見され、更にその後の調査から、建物の礎石が発見されたことにより、古代寺院の存在が確認されている。出土瓦は、老司式と鴻臚館式のものであり、8世紀前半のものと推測されている。
また筑前国続風土記の恵蘇八幡宮の条に「社僧の寺を朝倉山長安寺という……」と記されていることから、長安寺は恵蘇八幡宮と深い関係があったことが推測される。またこのことは続日本書紀に天智天皇が、斉明天皇の冥福を祈って観世音寺と筑紫尼寺を創建した、とあることから長安寺とは朝倉橘広庭宮の跡に営まれた筑紫尼寺のことではないかといわれている。


調査の結果、奈良~平安時代にかけてこの地に大寺院があったことが明らかになりましたが、朝倉橘広庭宮跡の確証は得られなかったそうです。





橘の広庭公園には「朝闇(ちょうあん)神社」があります。

≪教育委員会による看板より≫

ちょうあんじんじゃ
  朝闇神社

 所在地 福岡県朝倉町大字須川字鐘突1269


祭神 高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)

別名を大行事社(だいぎょうじしゃ)ともいい、祭礼は毎年9月14日に行われる。
近くには「朝倉橘広庭宮」「天子の森」「長安寺廃寺跡」があり、これらと関係があるのではないかといわれており、「朝倉」の地名は、この神社からきたものではないかとも考えられている。
また、この神社の境内に祀られた「毘沙門天堂」は現在も残っている。






さて。
中大兄皇子が母・斉明天皇の喪に服したという宮殿「木の丸殿(このまるどの・きのまろどの・このまろどの)」もまたかつて朝倉にありました。


≪『十訓抄』 上  可施人恵事  一ノ二 より≫

 天智天皇、世につつみ給ふことありて、筑前の国上座の郡朝倉といふ所の山中に、黒木の屋を造りておはしけるを、木の丸殿といふ。円木にて造るゆゑなり。

   ~(略)~

 さて、かの木の丸殿には用心をし給ひければ、入来の人、必ず名のりをしけり。

  朝倉や木の丸殿にわかをれば
  名のりをしつつ行くは誰が子ぞ

 これ、天智天皇の御歌なり。これ、民ども聞きとどめて、うたひそめたりけるなり。その国々の風俗ども、えらび給ひける時、筑前の国の風俗の曲にうたひけるを、延喜の帝、神楽の歌ども加へられけるに、うたひそへられたりけるなり。~(略)~


 「朝倉」にとりては、めでたき曲なり。昔よりかたみにゆづりて、上手にうたはせむとするなり。ことかき・すががきを掻くに、拍子ばかりをうちて、上下、臈をいはず、堪能のものにゆづりて、かれがうたふを待つなり。清暑堂の御神楽に、斉信、公任、本末の拍子をとられける時も付歌にて、定頼ぞ「朝倉」をばうたはれける。



『十訓抄(じっくんしょう・じっきんしょう)』は鎌倉時代に作られた年少者向けの説話集です。
 
この『十訓抄』には、天智天皇が母親である斉明天皇の喪に服していた様子と朝倉で詠んだ歌、そしてその歌が後世に素晴らしい・めでたい曲として伝えられた様子が描かれています。


(なぎ訳)
 天智天皇が斉明天皇の喪に服していた時、朝倉の山中に黒木で建物を造っていらっしゃったのを「木の丸殿(このまるどの・きのまろどの)」といいます。刈りだしたままの丸太でつくっていたからです。
 
 さて、その木の丸殿では用心をしていらっしゃったので、宮殿に入ってくる人は必ず名のりをしていました。

   朝倉の木の丸殿に私がいると
   名のりをあげていく人がいるが、あれは誰であろうか。

 これは、天智天皇の御歌です。これを人々が耳にとどめて、歌い始めました。それぞれの国々の風俗歌を選ばれた時、筑前の国の風俗歌として歌われていたのを、延喜(えんぎ)の帝とよばれた醍醐天皇が神楽歌にお加えになり、歌われるようになったといいます。

 「朝倉」という曲は、めでたい曲です。昔から互いに譲り合って、上手に歌わせようとするのです。「ことかき」や「すががき」などとよばれる和琴の出だしを演奏しながら、拍子だけを打って、身分の上下・年齢を問わず、堪能な者に譲って、その人が歌うのを待つのです。大内裏の豊楽院(ぶがくいん)にある清暑堂(せいしょどう)の御神楽で、藤原斉信・藤原公任が前半の拍子・後半の拍子をとられた時も「付歌(つけうた=神楽に添えて歌う歌)」として、藤原定頼がこの「朝倉」を歌われたということです。


・醍醐天皇<885~930>:平安初期の天皇。「延喜の帝」とよばれた。
・藤原斉信(ただのぶ)<967~1035>:平安中期の公卿。
・藤原公任(きんとう)<966~1041>:平安中期の公卿。
・藤原定頼(さだより)<995~1045>:藤原公任の子。




天智天皇の歌は、『新古今和歌集』第巻十七 雑歌中 にも収められています。

 朝倉や木の丸殿にわれをれば
  名のりをしつつゆくはたが子ぞ






福岡県朝倉市山田にある恵蘇(えそ)八幡宮は、「木の丸殿」跡といわれています。
次は、恵蘇八幡宮をご紹介いたします。

 恵蘇八幡宮へ続きます。


【PICK UP】 斉明女帝の朝倉橘広庭宮と木の丸殿 <福岡県朝倉市> その2

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 斉明女帝の朝倉橘広庭宮と木の丸殿

その1の続きです。


 木の丸殿跡
 恵蘇八幡宮



●所在地:福岡県朝倉市山田字恵蘇宿166


斉明天皇の喪に服す中大兄皇子(のちの天智天皇)が過ごした宮殿『木の丸殿』跡に建つと伝わる恵蘇八幡宮を参拝しました。
恵蘇八幡宮は国道386号線<朝倉街道>沿いにあります。



「朝倉木丸殿舊蹟」の碑
大きな樟の木の下にあります。

≪恵蘇八幡宮・木の丸公園説明より≫

木の丸御殿跡

皇太子中大兄皇子は、御母斉明天皇がお亡くなりになって7日後の8月1日、御遺骸を朝倉橘広庭宮からこの地にお移しになり、その夕御陵山に仮に葬られた。そして、陵下の山腹に丸木の殿を作られ、1日を1ヵ月にかえて12日間、母君の喪に服されたといわれ、この地を「木の丸殿」「黒木の御所」と呼ぶようになった。






「木の丸殿」は現社殿付近に営まれたのだとか。


≪恵蘇八幡宮・木の丸公園説明より≫

恵蘇八幡宮の由来

昔、郡中33ヵ所(上座郡)の総社として栄え、現在は朝倉町の総社となっている。応神天皇、斉明天皇、天智天皇を祭神として祀り、毎年10月15日に御神幸が行われている。
由諸によると、斉明天皇は661年、百済国救援のため筑紫の朝倉橘広庭宮(朝倉町大字須川)に下られた。この時随行の中大兄皇子(後の天智天皇)は国家安泰と戦勝祈願のため、宇佐神宮(大分県)に奉幣使を遣わされた。使の一行が恵蘇山麓に達した時、天上から白幡が降り、幡に八幡大神の文字が浮かび出たことから、天孫八幡なる宮社が創建された。その後、天武天皇白凰元年(673)に斉明天皇・天智天皇を合祀し、この頃社名を恵蘇八幡宮に定めたといわれている。
現在の本殿は安永元年秋9月(1772)の改築である。





≪由緒書より≫

郷社 恵蘇八幡宮 木の丸殿


祭神
 斉明天皇(第35代皇極天皇、第37代)
 応神天皇(第10代)
 天智天皇(第39代)


由緒
 斉明天皇7年(西暦661年)建立
 斉明天皇は百済救援のため朝倉町長安寺の橘広庭宮に皇居と大本営を遷されました 中大兄皇子(後の天智天皇)は国家安泰と武運長久を御祈願のため宇佐神宮の祭神応神天皇の御霊を奉り朝倉山天降八幡と崇められました その後 天武天皇の御代白凰元年壬申(673年)斉明・天智天皇の二神霊を勅命により合わせ祀り恵蘇八幡三柱大神と称しました 昔は上座郡中三十三村の総社でしたが現在朝倉町の総社氏神です


斉明天皇●葬地(御殯斂地)<●=“蒿”の下に“木”>
 山上には斉明天皇の御陵といわれる前方後円墳があります 斉明天皇は661年5月9日(新暦6月14日)橘広庭宮にお着きになり7月24日(8月27日)病のため崩御されました(御年68歳) 中大兄皇子は御遺骸を一時山上に御殯葬され軍を進め後に奈良県高市郡越知岡村へ移されると記されています。

木の丸殿遺蹟
 天智天皇は斉明天皇御殯葬のあと御陵山下に木皮のついた丸木で忌み殿を建て12日間喪に服されました 後世人々が「木の丸殿」と呼びました

 天智天皇御製

秋の田の刈穂の庵のとまをあらみ
  我が衣手は露にぬれつつ (小倉百人一首)

朝倉や木の丸殿に我居れば
  名のりをしつつ行くは誰が子ぞ (新古今集)




※注意:日本書紀・説明看板・由緒書に矛盾がある部分がいくつかありますがそのままを記載しています。






≪教育委員会による看板より≫

 このまるでんあと
 木の丸殿跡 

所在地 福岡県朝倉町大字山田字恵蘇宿166

由来
 西暦661年5月9日、百済救済のために朝倉橘広庭宮に遷られた斉明天皇は、病気と長旅の疲労のため同年7月24日、御年68歳で崩御された。7日後の8月1日、皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)は、母の御遺骸を一時朝倉山(御陵山)に御殯葬になり、御陵山の山腹(現在の八幡宮境内)に、木皮のついたままの丸木の柱を立て、板を敷き、芦の簾を掛け、苫をふき、あばらやなる屋に、塊を枕にし、1日を1ヶ月に代えて12日間喪に服されたといわれ、この地は「木の丸殿」「黒木の御所」と呼ばれるようになった。
 喪に服された皇太子は
 「朝倉や 木の丸殿に我居れば
  名乗りをしつつ 行くは誰が子ぞ」
という歌を詠まれた。また筑後川のほとりで名月を鑑賞され、心の痛みを癒されたと伝えられている。(月見の岩)







恵蘇八幡宮のそばには、筑後川が流れています。
中大兄皇子(のちの天智天皇)もこの川を眺めたことでしょう。
筑後川は有明海へと注ぐ大河です。



*木の丸殿公園(駐車場側入口)には、「史跡 秋の田」と記された天智天皇の歌碑が立っています。



 天智天皇御製 百人一首

 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ
  我が衣手は露にぬれつつ






*御陵山(ごりょうざん)



恵蘇八幡宮境内にある御陵山(ごりょうざん)は朝倉橘広庭宮で崩御した斉明天皇を一時的に葬ったと伝わります。



≪教育委員会による看板より≫

町指定史跡 御陵山(恵蘇八幡宮1・2号墳)

所在地 福岡県朝倉町大字山田字恵蘇宿169
指定日 昭和45年8月1日

日本書紀によれば、「西暦661年5月、斉明天皇は百済救援のため朝倉橘広庭宮に遷られたが、病のため7月24日に崩御された。皇太子中大兄皇子は母斉明天皇崩御7日後の8月1日に御遺骸を橘広庭宮からこの地に移し、一時的に葬り…」と記されており、地元では御陵山と呼んでいる。
陵上には方二間(1,8メートル)の石柵が巡り、中央の塔石には「斉明帝●葬地」(●=“蒿”の下に“木”)と刻されている。
形態は前方後円墳ではないかという説もあるが、町では円墳二基とみて指定している。


私が日本書紀を確認してみたところ、上記の「 」内に書かれているような記述(一時的に葬ったこと)は記載されていないのですが・・・。



宮内庁に指定されている第35・37代皇極・斉明天皇陵は、奈良県高市郡高取町大字車木にある「越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)」です。
その他、陵墓の候補として、橿原市小谷古墳、明日香村牽牛塚古墳、同越岩屋山古墳があげられています。


『日本書紀』によりますと、661年10月7日に斉明天皇の柩は帰途の海路につきます。(それまでは筑紫の磐瀬宮<長津宮>に柩が置かれていたと考えられます。)
そして、10月23日に天皇の柩は難波に帰還し停泊。11月7日に天皇の柩を飛鳥川原<飛鳥川原宮?>に運び、殯(もがり)を行いました。



中大兄皇子は、難波まで斉明天皇の柩を運ぶ途中、ある場所に船を停泊し、歌を詠んでいます。<日本書紀より>

 君が目の 恋しきからに 泊てて居て 
  かくや恋ひむも 君が目を欲り

(生きている母君にお目にかかりたい。船で港に停泊して母君と共にいるのに、どうしてこれほど恋しさが募るのでしょうか。生きている母君にお目にかかりたくて・・・。)

中大兄皇子の慟哭が聞こえてきそうな哀しい歌です。


中大兄皇子<天智天皇>は、斉明天皇の菩提をともらうために大宰府に観世音寺(太宰府市)を発願するのでした。





宝皇女<のちの皇極天皇・重祚して斉明天皇>についてまとめてみました。

宝皇女<皇極天皇・斉明天皇>へ続きます。

【PICK UP】 宝皇女<第35代 皇極天皇・第37代 斉明天皇>とは?

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斉明女帝の朝倉橘広庭宮と木の丸殿1


 宝皇女
 第35代 皇極天皇・第37代 斉明天皇

 天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)天皇




 宝皇女は、初めに高向王(たかむくおう)に嫁がれ、漢皇子(あやのみこ)をお生みになり、後に田村皇子<のちの舒明天皇>に嫁がれ、葛城皇子(かつらぎのみこ)・間人皇女(はしひとのひめみこ)・大海皇子(おほしあまのみこ)をお生みになりました。
 田村皇子の即位<舒明天皇>とともに、宝皇女は皇后となります。そして、舒明天皇が崩御された翌年に天皇として即位します。<皇極天皇>
 その後、皇極天皇<宝皇女>は同母弟である軽皇子に譲位<孝徳天皇>。譲位後、皇極天皇は皇祖母尊(すめみおやのみこと)と申し上げるようになり、中大兄皇子<葛城皇子>を皇太子としました。

 孝徳天皇が崩御された翌年に、皇祖母尊<宝皇女>は再び即位します。<斉明天皇>・・・日本史上、初めての重祚

 斉明天皇<宝皇女>は、百済救援のため筑紫に赴きますが、筑紫の朝倉橘広庭宮で崩御。『紹運録』『水鏡』には享年68歳、『帝王編年記』には享年61歳とされています。



 宝皇女が生きられた時代を見てみますと、天変地異や謀反の罪に問われ殺された人物の事件が頻繁に起きています。

◆シャーマン的!?「至徳の天皇」・・・皇極天皇時代
 大干ばつが起きた時、蘇我入鹿が雨乞いの行法をすると失敗。
皇極天皇<宝皇女>は、南渕の川上に行幸され、ひざまづいて四方を拝み、天を仰いで祈られたました!
 すると、雷が鳴って大雨が降り、5日間降り続いたことで、天下をあまねく潤したといいます。
 国中の人民は、みな万歳と喜び称え「至徳します天皇なり(至徳の天皇である)」と申し上げました。


◆土木工事大好き!?「狂心」の天皇・・・斉明天皇時代
 斉明天皇は事業を興すことを好まれ、水工(みずたくみ)に溝を掘らせ、香具山(かぐやま)の西から石上山(いそのかみやま)まで溝を通しました。舟200隻に石上山の石を積んで、水の流れに乗せて宮の東の山まで引き運び、石を積み重ねて石垣としました。
 時の人は、「狂心(たぶれごころ)の渠。(狂心の溝である)」と誹謗しました。この溝を掘るのに費やした人夫は7万人余りといいます。
 この後、さらに斉明天皇は奈良県吉野に吉野宮(離宮)を造営します。

※奈良県高市郡明日香村の「酒船石遺跡」が“宮の東の山の石垣”の跡ではないかといわれています。


 皇極天皇時代には「至徳の天皇」とまで呼ばれたにもかかわらず、斉明天皇となってからは「狂心」と誹謗される天皇・・・。このギャップは何を表すのでしょう。

◆母の看病に専念・・・皇極天皇時代
 皇極天皇<宝皇女>の母である吉備津姫王は、天皇の生母として「吉備島皇祖母命(きびのしますめらみおやのみこと)」と尊称されていました。この吉備島皇祖母命が病気に臥されてのち薨去され、喪葬が始まるまで、皇極天皇は床の傍らを離れず、誠心誠意をこめて看病なさいました。


◆孫・健王を愛した天皇・・・斉明天皇時代
 息子である中大兄皇子と蘇我石川麻呂の娘・遠智娘との子、健王(たけるのみこ)は、わずか8歳で亡くなりました。
 斉明天皇は、生まれつき物事に従順で節操があった孫・健王を大切に可愛がっていたので、激しく悲しみました。
 「万歳千秋の後に、要(かなら)ず朕が陵に合葬(あわせはぶ)れ(私の死後、必ず私の陵に健王と合葬せよ)」と群臣に詔(みことのり)し、挽歌を3首詠んでいます。

 今城なる 小丘が上に 雲だにも
  著くし立たば 何か歎かむ

(今城の小丘の上に、せめて健王の姿を表す雲だけでもはっきりと立ったならば、どうしてこれほど嘆こうか)

 射ゆ鹿猪を 認ぐ川上の 若草の
  若くありきと 吾が思はなくに

(射られた鹿猪の足跡を求めて探す、その川辺にはえる若草のように、若く幼少であったとは私は思わないのに。→皇位継承者にふさわしかったのに)

 飛鳥川 漲らひつつ 行く水の
  間も無くも 思ほゆるかも

(飛鳥川があふれるように盛り上がって流れて行く、その水のように間(あいだ)も無く健王のことを思われてならないことだ・・・)

 天皇はこれら3首を時々歌われては、お泣きになりました。
 また、紀温湯(きのゆ)に行幸された時も健王のことを思い出し、悲しみお泣きになって、和歌を3首詠まれています。

 山超えて 海渡るとも おもしろき
  今城の内は 忘らゆましじ

(大和から、山を越えて海を渡っても、健王の墓所があり趣ある今城の地のことは、決して忘れられないでしょう)

 水門の 潮のくだり 海くだり
  後も暗に 置きてか行かむ

(河口から潮流に乗って海路を下り、都から鄙へ下る、あとのことが気になって暗い気持ちのまま、健王を置いて行くのであろうか)

 愛しき 吾が若き子を
  置きてか行かむ

(いとしい私の幼い孫である健王を、後に置いて行くのであろうか。)


 母親思いで、孫を可愛がった宝皇女の姿は、情に熱い心優しい方だったように思われます。



◆温泉大好き!?
 宝皇女は、舒明天皇の皇后時代~斉明天皇時代までの間に、津国の有間温湯・有間温湯宮(いずれも現在の兵庫県神戸市の有馬温泉)、伊予温湯宮・伊予の熟田津の石湯行宮(いずれも愛媛県松山市の道後温泉)、紀温湯(和歌山県西牟婁郡白浜町の湯崎温泉)に行幸しています。
 有名な“有間皇子事件”は、斉明天皇が紀温湯に行幸して都を留守中に、有間皇子が謀反を企んだものとして紀温湯に護送され、藤白坂で絞首刑に処された事件です。


 宝皇女(皇極天皇・斉明天皇)は、温泉好きなのかもしれませんね♪激動の時代を生きた宝皇女・・・。彼女はいったいどういった人物だったのか、興味が尽きません。


 宝皇女(斉明天皇)が崩御された朝倉橘広庭宮跡や斉明天皇・天智天皇を祀る恵蘇八幡宮は筑後川の近くにありますが、この筑後川沿いには、歴史は浅いものの、原鶴温泉(朝倉市)という温泉があります。
(記録に残っていないだけで、斉明天皇の時代にも温泉があったりして!?)
 朝倉へお越しの際は、お立ち寄りになってはいかがでしょう。





【参考・本文引用】
『新編日本古典文学全集51 十訓抄』 浅見和彦 校注・訳者/小学館 発行
『新編日本古典文学全集43 新古今和歌集』峯村文人 校注・訳者/小学館 発行
『新編日本古典文学全集4 日本書紀 3 巻第二十三 舒明天皇~巻三十 持統天皇』 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守  校注・訳者/小学館 発行
『別冊歴史読本52図説天皇陵   歴代天皇陵の歴史探訪紀』 新人物往来社 発行

【PICK UP】 水城と大宰府 <福岡県太宰府市> その1

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※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2004年)
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 水城と大宰府



 福岡市(博多)方面から太宰府へ向かう途中、東西に連なる小高い丘を目にします。この木々が生い茂った丘は、途中、旧国道3号線・国道3号線・九州自動車道・JR鹿児島本線・西鉄電車の線路などに分断されながらも長く横たわっています。


 これが『日本書紀』巻第二十七 天智天皇条 に

 筑紫に、大堤を築き水を貯へ、名けて水城と曰ふ。

と記された大堤「水城(みずき)」跡です。


 水城が築かれたのは、天智天皇3年(664年)のことでした。この時、同時に対馬・壱岐・筑紫国などに防人(さきもり)と烽火(のろし)とを備えています。
 水城の規模は全長1,2km、基底部の幅約80m、高さ約10mの人工の土塁<土の堤防>です。土塁には2ヶ所に門が作られ、奈良時代には官道が通っていました。西門は鴻臚館(こうろかん)に通じ、東門は博多に通じていたと推定されています。
 そして、かつては水城の名の通り、博多側<海側>に幅60m、深さ4mの外濠が造られ水が貯えられていました。最近の調査結果では、棚田状に並んだ2本の濠(ほり)が並行して掘られていたことがわかっています。<毎日新聞 平成18年10月21日(土)朝刊より>


 さらに、現在の春日市(大土居、天神山)・大野城市(上大利)にも小規模な水城<小水城>跡が残っています。



 秋、八月に、達率答春初を遣はして、城を長門国に築かしむ。
達率憶礼福留・達率四比福夫を筑紫国に遣はして、大野と椽、二城を築かしむ。


 また天智天皇4年(665年)の秋、8月には百済の貴族を遣わせて、長門国(山口県)・筑紫国に城を築きます。
 同じく百済の貴族を筑紫国に遣わせて、大宰府の北2~3キロメートルにある大野山<四王寺山>に大野城(おおのじょう)を、大宰府の南約10キロメートルにある基山に基肄城(きいじょう)が築かれました。



 大野城(おおのじょう)

 大野山頂にある朝鮮式山城。土塁や石垣で山頂全体を囲むように造られており、北と南のみ二重に防御されている。その中に建物が建てられていた。城内の各地域には70棟以上の倉庫を主とする建物跡が発見されている。
 大野山は、のちに四天王像を安置する四王院が創建されたため、この山を「四王寺山」ともいう。
 大野城は、太宰府市・大野城市・宇美町にまたがっている。 


 基肄城(きいじょう)

 最高峰415mの基山に築かれた朝鮮式山城。
 福岡県筑紫野市と佐賀県三養基郡基山町にまたがる基山を含む谷を大きく延長約5kmの土塁で囲み、要所は石垣で固め、その中に倉庫と考えられる建物が40棟ほど建てられていた。城門が北の筑紫野市側に2ヶ所、南の基山町側に2ヶ所確認されている。






 水城の東側は、大野城のある大野山<四王寺山ともいう>に接しており、水城の西側も丘陵と繋がっています。
 つまり、大宰府の北西側は、塞がれているような形となっています。

 大野城と同時期に築かれた基肄城もまた大宰府の南を護る意図を感じられます。

 これらは、唐と新羅の攻撃に備えた防衛施設でした。
・・・というのも、唐・新羅に滅ぼされた百済復興のため、日本は661年から救援軍を朝鮮半島へ派遣していました。しかし、天智天皇2年(663年)8月、白村江の戦いで日本軍は壊滅。このため、日本は防衛に力を入れなくてはならなくなったのです。






*水城の西側を訪ねてみました。<2004年>



 JR水城駅の構内にあった案内地図です。(現在地と示された所が水城駅です)
 ご覧の通り、「水城」は、JR鹿児島本線や西鉄電車、国道3号線、九州自動車道、旧国道3号線などに分断されつつも、現在まで姿を遺しています。




 看板がある辺りから水城を見上げてみました。
 とても高いです!!
 上に石碑があるので、登ってみました。




 史蹟 水城阯の石碑




 石碑の位置から西を見た「水城」の様子。
 木々がこんもりと繁っています。




 水城跡(博多側)です。
 博多側にはかつて水を貯めた濠があったのですね。




 JRの線路沿いから見た「水城」の断面です。
 このさらに西側に、水城の西門がありました。(未チェックです(^^;)礎石を見ることができるそうです。)

 西門からは鴻臚館へと通じる官道があったと考えられています。




*水城の東側を訪ねてみました。<2004年>



 旧国道3号線沿い、“水城3丁目”の信号近くに「水城大堤之碑」があります。
 太宰府市コミュニティバスまほろば号 バス停「水城」隣りです。




 史蹟 水城阯の碑
 石碑の横に東門の礎石があります。




 水城の東門礎石

 江戸時代には「鬼の硯石」といわれたそうです。巨大な石です。

 東門からは、博多遺跡群に向かって官道が伸びていました。




 手前に写っている道路は、旧国道3号線で、小高い丘が水城です。



 『目でみる太宰府市の文化財1 特別史跡 水城跡』(財団法人 古都大宰府保存協会 発行・1994年)によりますと、

 東門を通過する道は近世の街道と重複しており、その道は昭和の始め頃に国道3号線となり、現在も博多と直線で結んでいる。

と記されています。


 旧国道3号線は昔の官道の名残なのですね♪



 現在まで「水城」の跡が残っているのは、水城の築造過程によるものです。
 水城の土塁は粘土や砂などを交互に5~30cmほどの厚さに平たく均され、突き固めて積み上げられています。
 また、水城の下の方は、地盤が軟弱であったため、樹木の枝葉を敷き詰めて基礎の滑りを押さえる工法が採用されていました。

 長い年月のために土塁も部分的に削れ、かつて博多側にあった大きな外濠も埋もれてしまいました。

 しかし、水城はたんなる堤ではなく、頑強な堤防として高い土木技術で築造されていたため、現在でも崩れにくいとのことです。




 水城の築造過程 <九州国立博物館で撮影>




JR水城駅近くの“西側の水城”と太宰府市コミュニティバスまほろば号 バス停「水城」近くの“東側の水城(東門跡)”をそれぞれご紹介しました。




 上記の絵地図(下手な絵ですみません)のように大宰府政庁の北側には、大野城があった大野山<四王寺山とも>があり、西側を塞ぐように水城がありました。そして南には基肄城(きいじょう)がありました。

 大宰府は、大野城・水城・基肄城と自然の山々(※)に取り囲まれ防衛されていました。

※平成15年に大宰府の東を護る阿志岐山城(あしきさんじょう=筑紫野市)が発見されました。平成23年に国指定史跡となっています。


 さらに大宰府の北東には、鬼門を護る宝満山(ほうまんざん)があります。標高829,6メートル、修験道の山として有名です。
 古くは御笠山(みかさやま)または竈門山(かまどやま)とよばれており、山頂や9合目の竈門岩、3号目の辛野などにおいて、7世紀後半~近世にいたるまで様々な祭祀遺物が発見されています。
 奈良・平安時代には、遣唐使船に乗る僧侶が航海の安全を祈願し、天台宗延暦寺を開いた最澄も参詣した「竈門山寺」もありました。



 大宰府の起こりは、もともとは博多湾(福岡市)の近くに「那津官家(なのつのみやけ)」という施設がおかれていましたが、白村江の戦い後、現在地(太宰府市)に移されたといわれています。



次回は大宰府政庁跡をご紹介します。

 大宰府政庁跡へ続きます。



【PICK UP】 水城と大宰府 <福岡県太宰府市> その2

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 水城と大宰府

水城と大宰府その1の続きです。


 大宰府政庁跡
 <都府楼跡(とふろうあと)>



●所在地:福岡県太宰府市観世音寺4丁目
●交通 :太宰府市コミュニティバスまほろば号「大宰府政庁跡」下車
    :西鉄電車「都府楼前」駅下車 徒歩15分


≪「筑紫万葉のふるさと 観光と史跡散策 太宰府」のパンフレットより≫

“都府楼跡(とふろうあと)”の名前で親しまれている大宰府政庁跡は九州全体を治める役所大宰府があった所である。
7世紀の後半から奈良・平安時代を通じて九州を治め、わが国の西の守りとして防衛を、また外国との交渉の窓口として重要な役割を果たしてきた。
現在も大宰府政庁跡の中心にはその大きさをしのばせる立派な礎石が残り、そこを中心に門や回廊、そして周辺の役所跡が復元され、公園となっている。




*大宰府政庁図


注)上の図は、『大宰府史跡発掘調査30周年記念特別展 「大宰府復元」』(九州歴史資料館・平成10年10月23日発行)に掲載されていた政庁第Ⅲ期 の図とパンフレット等に掲載されている政庁模型の写真を参考にして、なぎ が書いたものです。正確なものではございませんので、学術的な資料を求められる方は専門書をご覧下さいませ。<(_ _)>



 大宰府政庁跡 入り口

「史蹟太宰府阯」と「都府樓趾」の石碑があります。

 大宰府政庁のことを「都府楼(とふろう)」ともよばれるのは、菅原道真が詠んだ漢詩の一部
 都府樓纔看瓦色
(都府の楼にはわづかに瓦の色を看る)
 が由来といわれています。




 大宰府政庁入り口
 北に大野城があった大野山がそびえたっています。
 階段の上には、南門跡があります。



 南門跡に立って北を見たところ。
 中門跡と奥に正殿が見えます。



 中門跡に立って北を見たところ。
 正殿にだいぶ近づいてきました♪






 大宰府政庁 正殿跡


≪看板より≫

正殿跡とは

大宰府の長官である帥(そち)が政務を執り、これと関わる儀礼や儀式で最も重要な役割を果した場が正殿である。
大宰府は中央政府の縮小版として西海道(九州)の管内諸国を統轄していた。
宮都での元旦拝賀を参考にすれば、大宰府でも元旦には管内諸国から国司たちが集い、正殿に座した帥に拝賀する儀礼が行われたと思われる。
このように正殿はその政治的秩序を保つための威厳に満ちた建物だったことだろう。





 正殿から南を見てみました。
 この白砂の部分に役人たちが集まったと考えられます。

 大宰府の南には、基肄城(きいじょう)がありました。



 正殿から南西を見たところ。
 西側の脇殿跡が見えます。

 大宰府の西側には、水城があり、さらに丘陵があります。




 正殿から南東を見たところ。
 東側の脇殿跡が見えます。

 大宰府政庁の東にある月山には漏刻(水時計)があったと伝えられています。



 正殿から北門を見たところ。
 築地塀に見立てた植え込みが途切れた部分が北門部分です。




 大宰府政庁跡の東にある「大宰府展示館」では、大宰府や周辺史跡の歴史がわかりやすく紹介されています。


 大宰府展示館においてあったスタンプ。
 大宰府史跡出土の鬼瓦は朝鮮半島の影響を受けているそうです。

 なぜか「漢倭奴国王」のスタンプもありました。



 復元模型 奈良時代
  大宰府式鬼瓦

 大宰府政庁跡で出土した鬼瓦を長さ・幅ともに2倍の大きさで復元されたものです。
 大宰府政庁正殿の魔よけとして用いられていました。<「太宰府館」にて撮影>



 大宰府政庁跡出土 軒丸瓦(のきまるかわら)<『太宰府館』にて撮影>






 大宰府政庁南門模型<九州国立博物館で撮影>

 門前には、役人や僧、壺装束姿の女性、遊ぶ子どもなどの賑わいが再現されています。






【本文引用・参考】
「新編日本古典文学全集4 日本書紀3
 巻第二十三舒明天皇~巻第三十持統天皇」 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守 /校注・訳者 小学館 発行

【参考】
「目で見る太宰府市の文化財1 特別史跡 水城跡」  財団法人古都大宰府保存協会 発行
「大宰府史跡発掘調査3030周年記念特別展 大宰府復元」九州歴史資料館 編集・発行
「太宰府紀行」 森弘子 監修 (財)古都大宰府保存協会 編
 太宰府市 公式HP
 筑紫野市 公式HP




 大宰府と『源氏物語』の関係にご興味をお持ちの方は、webサイト『花橘亭~源氏物語を楽しむ~』「源氏物語ゆかりの地をめぐる 遥かなる筑紫 太宰府」もご覧くださいませ。


【PICK UP】 古代の迎賓館 鴻臚館(こうろかん)<福岡市中央区>

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 古代の迎賓館
 鴻臚館

●所在地:福岡県福岡市中央区城内(舞鶴公園内)
●交通 :西鉄バス「平和台鴻臚館前」バス停下車
    :福岡市地下鉄「赤坂」駅下車




 鴻臚館(こうろかん)は、外国の使節を接待した館で、筑紫(福岡市)・大和宮都の外港である難波(大阪)・平安京(京都)の3ヶ所に置かれました。
 難波の鴻臚館は承和十一年(844)摂津国府に転用されます。
 平安京の鴻臚館は、はじめ羅城門の両脇に設けられましたが、弘仁年間(810-824)に七条朱雀へ東鴻臚館・西鴻臚館として移されたと伝えられています。


 2004年5月に国指定史跡となった筑紫の「鴻臚館」は、当初、「筑紫館(つくしのむろつみ・つくしのたち)と呼ばれ、平安時代初期(嵯峨天皇の時代?)に唐の外務省に相当する役所の“鴻臚寺”にならって「鴻臚館」と名を改めました。
 “鴻臚”とは、賓客を迎える時、大声で伝達するという意味です。

 日本書紀によると、持統二年(688)に新羅国使を筑紫館でもてなしたという記述が初見。鴻臚館の初見は、承和五年(838)、遣唐副使・小野篁が大宰鴻臚館で唐人沈道古と詩を唱和するという記述です。(注/これより少し後の承和14年(847年)『入唐求法巡礼行記』では鴻臚館の名称で登場)

 11世紀になると鴻臚館の呼び名は「大宋国商客宿坊」となりますが、永承二年(1047)この宿坊が放火され犯人が捕らえられたという記述<『扶桑略記』>を最後に歴史から姿を消します。そのため、11世紀半ばまで使われていたと考えられます。

 鴻臚館遺構の移り変わりは、5時期に区分されますが、建物の遺構の検出は第1期~3期までで、第4期(9世紀後半~)・第5期(10世紀後半~11世紀前半)は建物の遺構は、福岡城建築による破壊を受けたため検出されていません。しかし陶磁器が豊富に出土しています。


 奈良時代<筑紫館時代>は、唐や新羅からの外国使節(※図1)をもてなしたり、日本から唐や新羅へ向かう遣唐使・遣新羅使・留学生の宿泊施設として利用されたりしました。
 平安時代<鴻臚館時代>遣唐使の廃止(894年)後は、唐商人の接待・外国人の検問や貿易(※図2)などに用いられる外交の場にあてられ、現在それらを示す多くの国際色豊かな遺物が大量に出土しています。

 筑紫の鴻臚館は大宰府(福岡県太宰府市)の諸機関のひとつであり、まだその全容が明らかになっていません。大宰府と鴻臚館は直線的な国道(官道)で結ばれていた可能性が高いといわれています。鴻臚館の発掘調査は場所を広げながら2021年度まで続くそうです。今後の発見に目が離せません♪


 発掘調査が終わり整備された鴻臚館跡の一部は鴻臚館跡展示館<入場無料>と広場として市民の憩いの場となっています。
鴻臚館展示館では国際色豊かな出土品がたくさん展示されており鴻臚館の特色をよく反映しています。



 ※図1 




 ※図2






 筑紫の鴻臚館の場所

 鴻臚館の場所については、江戸時代以来、現在の福岡市博多区中呉服町付近に比定されてきました。
 しかし中山平次郎(1871-1956)博士は、地名や「小右記」の刀伊の入寇<寛仁3年(1019年)3月28日から4月13日>の記事、「万葉集」などから福岡城内説を唱え、のちの発掘調査によって現在の地<福岡城跡内>と確認されました。


 <万葉集 巻十五> 天平八年(736)に遣新羅使一行が故郷を思って筑紫館(つくしのむろつみ)で詠んだ歌です。

筑紫の館に至りて、本郷を遥かに望み、悽愴して作る歌四首

3652 志賀の海人の 一日も落ちず 焼く塩の 辛き恋をも 我はするかも

3653 志賀の浦に いざりする海人 家人の 待ち恋ふらむに 明かし釣る魚

3654 可之布江に 鶴鳴き渡る 志賀の浦に 沖つ白波 立ちし来らしも

 一に云ふ、「満ちし来ぬらし」

3655 今よりは 秋付きぬらし あしひきの 山松陰に ひぐらし鳴きぬ



 <鴻臚館(筑紫館)の地である条件>

●志賀島が眺望できる
●山松陰のひぐらし(セミ)の鳴き声が聞こえる


四首目の「今よりは~」の歌碑が舞鶴公園内(鴻臚館跡展示館の北西)にあります。



≪歌碑の案内板より≫

 「筑紫の館」 万葉歌碑

 天平八年(西暦七三六年)に新羅の国に派遣された使節一行が往路筑紫の館に着いた時、はるか故郷の大和の方を望んで、一行の中の一人がよんだ歌です。一行の人たちは秋になったら帰って来るからと家人に約束して出かけて来たのに、まだ新羅にも渡らず、やっと筑紫の館に着いたところで秋になってしまったので、この悲痛な歌をよんだのです。従って「今よりは」の初句がよく利いています。
 「今からはもう秋になってしまったらしい。山の松かげでひぐらしがないたから。」という意味です。筑紫の館は、後に鴻臚館とよばれ、遣唐使や遣新羅使のための宿泊施設と外国の使節や商人のための迎賓館とを兼ねたもので、ここ福岡城跡内にありました。



 現在も調査が進められている鴻臚館跡の地ですが、調査前は私が知る限りでも 平和台野球場→福岡第二十四連隊兵営内被服庫武器庫火薬庫→福岡城→お寺(室町時代?)→鴻臚館・筑紫館→古墳(7世紀前半のもの) だったそうです。

 NHKで放送された「歴史でみる日本」でのお話しによると、古墳を壊しながら筑紫館を作っていたというのですから、国家的な大規模な工事だったと思われます。弥生中期~古墳時代後期まで、丹塗りの土器や円筒埴輪のかけらがみつかっていることからも筑紫館ができる以前は墓地だったと考えられています。




【参考】
「都府楼」10号 特集:鴻臚館 発行:(財)古都大宰府を守る会
「日本史大事典」第3巻 こ~し 発行:平凡社
「源氏物語の鑑賞と基礎知識」 №31 梅枝・藤裏葉 監修・鈴木一雄/編集・河添房江 発行:至文堂
「史跡 鴻臚舘跡」パンフレット 福岡市教育委員会

【引用】
 新編日本古典文学全集9 「萬葉集4」 巻第十五~巻第二十 校注・訳者:小島憲之・木下正俊・東野治之 発行:小学館


【PICK UP】 源融(みなもとのとおる)と河原院

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源 融 (みなもとのとおる)
822年(弘仁13年)~895年(寛平7年)8月25日

 平安時代初期の廷臣。通称:河原左大臣。
 父は、嵯峨天皇。母は、大原全子。仁明天皇の養子となり、838年(承和5年)内裏で元服。累進して872年(貞観14年)8月、左大臣となる。死後正一位を追贈された。

 六条坊門小路南、万里小路東に邸宅を営み、河原院(かわらのいん)または東六条院と号した。
 嵯峨の山荘・棲霞観(せいかかん)や宇治に別荘を造り、豪奢な生活を送った。

 『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルともいわれている。


 歌人としても知られ、『古今和歌集』・『百人一首』に

陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに
 乱れそめにし われならなくに

(陸奥<みちのく>の「しのぶもじずり」の乱れ模様の布のように、あなた以外の誰のために私の心は乱れはじめてしまったというのか、私のせいではなく、あなたのせいなのだ。)

が収められている。


 嵯峨にある清凉寺は、融の山荘・棲霞観跡と伝えられ、境内には源融の墓といわれる石塔がある。
 また融の宇治の山荘跡は、のちに藤原道長に渡り「宇治殿」となり、その子・頼通が寺に改めたのが平等院の始まりである。
(源融の宇治の山荘について平等院とは別位置であるという指摘もあり。)


 現在、河原院跡に建つ本覚寺(京都市下京区)に源融像が安置されている。錦天満宮(京都市中京区)には境内に源融を祀る塩竃神社がある。

 そのほか、滋賀県大津市には源融とその母・大原全子を祀る「融神社」がある。

 源融が難波(大阪湾)から海水を京の河原院に運ばせたことにちなみ、兵庫県尼崎市に源融を祀る「琴浦神社」がある。





河原院とは?

 源融が創始した平安前期に栄えた邸宅。
 庭の池には鴨川の水を引き入れ、陸奥国の塩竃(しおがま)の浦を模した。当時、「陸奥の塩竃」は歌枕で有名であった。
 また毎月、難波から30石の海水をその池に運ばせては、塩を焼く煙の風情を楽しんだという。塩焼きとは製塩のこと。

 能の「融」はこの塩竃を素材とした曲である。

 河原院は融から、融の子・昇に伝えられ、さらに宇多法皇に寄進され仙洞となった。法皇の死後、この邸宅は寺へと改められた。
 1000年(長保2)年に、融の子で僧の仁康聖人(にんこうしょうにん)が祗陀林寺(ぎだりんじ)を開創するにあたって、河原院の本尊を移したと伝える。

『都名所図会』の河原院蹟の項目によると次のような一文がある。

〔今五条橋の南、鴨川高瀬川の間に森あり、これを籬(まがき)の森といふ。河原院の遺跡なり〕

 現在、河原院址の碑があるあたりはかつて“籬(まがき)の森が”あったという。これは河原院の庭の池にあった“籬(まがき)の島”の名残であると伝わる。
 “籬の島”とは、宮城県塩竈市の千賀の浦(塩釜港)にある小島のこと。

 
 その後、河原院は度々火災に遭い荒廃していった。


 平安時代中期の歌人・恵慶法師(えぎょうほうし)は、河原院の荒廃の様子を以下のように歌っている。<拾遺和歌集より>

 河原院にて荒れたる宿に秋来(きたる)といふ心を人々詠み侍(はべり)けるに

  八重むぐら しげれる宿の さびしきに
     人こそ見えね 秋は来にけり


(葎が幾重にも生い茂って荒れ果てた河原院はただでさえ寂しい様子なのに、誰ひとり人の姿は見えないで、秋だけはやって来たことだ。)

 上記の歌は『百人一首』にも収められている。




【ただいま移動中】 花橘亭~なぎの旅行記~ PICK UP

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※この記事はしばらくトップに置いておきます。

ブログ「晴れのち平安」へようこそ!

当ブログのカテゴリー「PICK UP」から移動は私がかつて運営していたwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内のコンテンツ「PICK UP」で紹介していた内容をブログ記事へ移動させたものです。
(webサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』と「PICK UP」はともにホームページサービス終了により閲覧不可能となりました・なります。)


私が今まで訪れた地の歴史や伝承のうち特に興味のある場所をおおまかな時代順にご紹介しています。
以下、ブログ「晴れのち平安」での各ページへのリンクです。


★ 「金印」出土の志賀島と志賀海神社 <福岡市東区>

★ 斉明女帝の朝倉橘広庭宮と木の丸殿 <福岡県朝倉市>

★ 水城と大宰府 <福岡県太宰府市>

★ 古代の迎賓館 鴻臚館 <福岡市中央区>

★ 藤原高藤と宮道列子のロマンスの地 山科 <京都市山科区>


ただいませっせと移動中です!!


【トーク&歓談】「源氏物語ゆかりの地としての大宰府」11月11日(日)開催<参加者募集中>

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 福岡県太宰府市でおこないます!!

(トーク&歓談)「源氏物語ゆかりの地としての大宰府」

 日 時:2018年11月11日(日)午前10時30分~12時
 会 場:福岡県太宰府市内、西鉄「太宰府駅」近く
 お 話:なぎ
 対 象:大宰府や『源氏物語』にちょこっとでも関心がある18歳以上の一般の方。
 参加費:500円(資料+お茶+お菓子代)


参加希望の方は事前にTwitter(@kakitutei)またはメールフォームからご連絡くださいませ。
ご参加お待ちしております。

どうぞよろしくお願いします。








【PICK UP】 河原左大臣 源融を祀る 融神社 <滋賀県大津市>

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河原左大臣 源融(みなもとのとおる)を祀る
融神社

●所在地:滋賀県大津市伊香立南庄町
●交通 :JR「雄琴温泉」駅下車 徒歩約1時間




 平安時代初期、嵯峨天皇の皇子として生まれた源融(みなもとのとおる)とその母・大原全子(おおはらのぜんし・またこ)を祀る神社が、滋賀県大津市にあります。

 源融は平安京の河原院という邸宅に住んでいたことから河原左大臣とも呼ばれていました。『百人一首』に撰ばれている以下の源融の歌はよく知られています。

 陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに
  乱れそめにし われならなくに

   河原左大臣


(陸奥<みちのく>の「しのぶもじずり」の乱れ模様の布のように、あなた以外の誰のために私の心は乱れはじめてしまったというのか、私のせいではなく、あなたのせいなのだ。)


 平安時代中期、紫式部が執筆した『源氏物語』の主人公・光源氏。
 源融は“光源氏のモデル”の一人といわれています。

 2008年秋、「源氏物語千年紀」を記念した京都定期観光バスのコースでで融神社を参拝しました。



<由緒書より>

 融神社

大津市伊香立南庄町牟禮の岡山一八四六
 
御祭神 正一位河原の左大臣 源融公
配祀神 大原全子 (融公の母親)
    大山咋の神(山の神)
御神紋 十七枚菊
例祭日 四月二十九日 (元五月一日)
境内社 十九社 (内五社は不詳)
特別行事 神誘巡の神事


 由緒

 抑もそも当神社は、人皇第五十二代嵯峨天皇の第十八皇子源融公をお祀りする全国唯一つの神社であります。
 当地は、融公の荘園で現在の社地は公が宇多天皇、寛平年間に南庄村牟禮の岡山に閑居賜ひし旧跡で有り、朱雀天皇天慶八年に旧地に祠を建て鏡一面を御神璽として融公を祀られた事が当社の創始で有る。
 寛和二年花山法皇、近江巡幸の時社殿を造営在らせられ
正一位融大明神と崇称せらる。
 一條天皇、永延二年南庄の水田百町歩を神領とされ、之を始め御歴代天皇奉幣の例有しが、鎌倉時代以後、次第に衰退し
遂に廃絶せり。

 其の後、南庄・谷口・家田・三村の産土の神と成った。
 元亀二年、信長の延暦寺焼討ちにあい、社殿其の他焼亡した。
 天正七年に至りて社殿を再興し神璽を奉遷された。
 後世この神領は武家の所領と成った。
 寛政八年、再び社殿火災に罹り、勅書、神宝等消失す。
 同九年、社殿及び末社等再造営され現在に至る。
 嵯峨の清凉寺、宇治の平等院などは公の別荘でもあった。
 又、公は小倉百人一首  陸奥の しのぶもじずり 誰故に 乱れ染めにし 我ならなくに の読人でもある。
 後の世に紫式部は、光源氏の名で源融公をモデルとして源氏物語を作ったのである



融神社の鳥居



鳥居の扁額



舞殿



左側:大原全子を祀る社殿
右側:源融を祀る社殿

母と子を祀る社殿が並んでいます。



源融を祀る社殿
御神紋は十七枚菊です。



大原全子(源融の母)を祀る社殿



別の角度から二社を撮影。




 融神社で貴重な資料を見せていただきました。


融大明神


源融像

本覚寺(京都市下京区本塩竈町)にある源融像の模写が飾られていました。
本覚寺は、源融の邸宅・河原院跡に建つお寺です。



実在した源融とはどのような人物だったのでしょう。
この度、融神社を参拝できて嬉しかったです。

また機会があればお参りしたいです。



 オススメの本。

 
 源氏物語の近江を歩く (近江旅の本)

 著者:畑裕子/発行:サンライズ出版/2008年発売

『源氏物語』と近江、紫式部と近江の関係を説いた本。
小説感覚で紫式部の生涯を楽しめます。
近江を巡るためのガイドブックとしてもオススメ♪
地図やアクセス情報も紹介されています。

【PICK UP】 『東風吹かば…』飛梅伝説を追え!<京都市・福岡県太宰府市> その1 

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※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2004年。写真は2014年以降撮影のものに差し替え。)
ホームページサービス終了により当ブログへ移動しました。
現況と異なる部分も含まれていることと思います。ご了承くださいませ。


 
 『東風吹かば…』飛梅伝説を追え!

 菅原道真(845年~903年)ゆかりの『飛梅伝説』をご存知でしょうか。

 概要は、菅原道真が、901年 大宰権帥(だざいのごんのそち)に任ぜられ、京を発つ際、邸宅(紅梅殿)に植えてあった梅に『東風吹かば・・・』と和歌を詠むと、梅は一夜で道真を慕って京から太宰府まで飛んできたという話です。


 福岡県にある菅原道真を祀る太宰府天満宮では、本殿の向かって右側に御神木『飛梅』があります。
 また、京都で、『東風吹かば・・・』の和歌が詠まれた紅梅殿址は現在、「北菅大臣神社」があり、紅梅殿址の南、白梅殿址(こちらも菅原氏の邸宅址)には「菅大臣神社」があります。
「菅大臣神社」にも同じく『飛梅』と記された梅があるんですよ♪


 さてさて。
 『飛梅』は、菅原道真を慕って、京から太宰府まで一夜で飛んできたと伝えられていますが…

 関西発の高速バスが一晩で福岡に到着するので高速バスと同じくらいの速度で飛んだのかも!?


 ・・・というわけで、(どんなわけだ?)

 『飛梅』を見に、京都の北菅大臣神社(紅梅殿跡)・菅大臣神社(白梅殿跡)と太宰府天満宮へ行ってまいりました♪





 『東風(こち)吹かば…』が詠まれた地
 紅梅殿址(北菅大臣神社<紅梅殿社>)

●所在地:京都市下京区菅大臣町
●交通 :市バス「西洞院仏光寺」バス停 下車



仏光寺通から北を撮影。

仏光寺通(=かつての五条坊門小路)をはさんで北に、『紅梅殿』址(=北菅大臣神社)、南に『白梅殿』址(=菅大臣神社)があります。

石碑には 菅家邸址 と書いてある下に小さく 紅梅殿 と書いてあります。

写真右奥に見える小さなお社が北菅大臣神社です。




北菅大臣神社 
ご祭神:菅原是善(これよし=道真の父)公

お社は南を向いて建てられています。

菅原道真が
「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ(春を忘るな)」
と詠んだ地として知られています。

鳥居の扁額に「紅梅殿」の文字が。

清少納言は『枕草子』(第20段)家は の中で 紅梅(殿) を素晴らしい邸宅のひとつとして挙げています。





 白梅殿址(菅大臣神社)

●所在地:京都市下京区仏光寺通新町西入ル菅大臣町
●交通 :市バス「西洞院仏光寺」バス停 下車




仏光寺通側の鳥居。

鳥居のそばには「菅家邸址」(白梅殿跡)を示す石碑が建っています。
(写真の矢印(←)部分)

「平安時代史事典」によりますと、
『白梅殿』は、菅原氏累代の第宅であり、『紅梅殿』という名称に対応して、『白梅殿』と呼ばれるようになったそうです。



左側の木が『飛梅』とされていました。
こちらの飛梅は赤い花を咲かせます。


菅大臣神社
ご祭神:菅原道真公

本殿は西向きに建てられています。
(九州、太宰府のほうを向いているのかしら?)


境内には菅原道真が産湯を使ったとされる井戸もあります。




  ・・・そして、私も太宰府へ!!!




 太宰府天満宮

●所在地:福岡県太宰府市宰府
●交通 :西鉄電車「太宰府」駅下車 徒歩約5分



 大宰府へ左遷された道真を慕って、京の「紅梅殿」から一夜のうちに飛来したと伝わる『飛梅』です。
 太宰府天満宮の本殿に向かって右前にあります。






 こちらの『飛梅』は八重咲きの白い花を咲かせます。

 菅原道真はこの本殿の下に葬られています。『飛梅』は道真公を慕うかのように本殿側から咲き始めるのだとか。



 菅原道真 歌碑は、太宰府天満宮の延寿王院前にあります。

<歌碑 看板より>

 菅原道真公 歌碑

 東風吹かばにほひおこせよ梅の花
  あるじなしとて春な忘れそ

 昌泰四年(九〇一)に大宰権師を命じられた菅原道真公が京都を出発される際に紅梅殿の梅に惜別の想いを込めて詠じられたもので、公を慕って一夜のうちに京より大宰府まで飛来したといわれる御神木「飛梅」(御本殿右側)の由来として有名である。


 上記の文などをご覧になって、
「ちょ~っと待ったぁ!!“春な忘れそ” じゃなくて “春を忘るな” じゃないの!?」
と思われた方もいらしゃることと思います。

 菅原道真が詠んだ和歌『東風吹かば・・・』が文学作品上、はじめて現れるのは、平安時代の勅撰和歌集『拾遺和歌集』です。
 『拾遺和歌集』では 第五句は“春を忘るな”となっています。この 『拾遺和歌集』が編纂されたのは、道真の死から約100年後のこと。

 個人的には、“春を忘るな”は梅の木に語りかけるような優しい印象を受けますね。

 そして、第五句が“春な忘れそ”と書かれるようになったのは、後世の説話集に飛梅のエピソードが収められるようになってからのようです。「な・・・そ」の《禁止》の表現が、和歌らしいカッコイイ感じがします♪

 『東風吹かば・・・』の歌とゆかりの菅大臣神社・太宰府天満宮で第五句を“春な忘れそ”と表記していらしゃるのは、ゆかりの地としての公式見解なのでしょうか。(笑)


ともあれ。
 『東風吹かば・・・』の和歌と「飛梅伝説」が現在まで語り継がれているのは素晴らしいことですよね♪



『東風吹かば・・・』が含まれる主な作品を次の記事にてまとめてみました。

 その2へ続きます




【PICK UP】 『東風吹かば…』飛梅伝説を追え!<京都市・福岡県太宰府市>その2

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※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2004年)
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 『東風吹かば…』飛梅伝説を追え!

その1の続きです。


『東風吹かば…』が含まれる主な作品まとめ


  ―平安時代―


●寛弘2年~3年頃(1005~1006年頃)編纂
『拾遺和歌集』巻第十六 雑春

  流され侍りける時、家の梅の花を見侍て   贈太政大臣

 東風吹かばにほひをこせよ梅花 主なしとて春を忘るな


<なぎコメント>
「東風吹かば・・・」の初出です。
 勅撰和歌集である『拾遺和歌集』が編纂されたのは、道真が亡くなった延喜3年(903年)から約100年後のこと。
“贈太政大臣”とありますが、道真の死後、正暦4年(993年)に正一位太政大臣の官位が贈られました。



●平安時代後期成立
『大鏡』第二巻 左大臣時平

  かたがたにいとかなしく思し召して、御前の梅の花を御覧じて

 こち吹かばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春をわするな


<なぎコメント>
『拾遺和歌集』・『大鏡』では、まだ道真の邸宅を“紅梅殿”と記していないもよう。



●治承4年(1180年)頃?成立
『宝物集』巻第二

   古郷の梅をよみ給ひける

 東風ふかばにほひをこせよ梅の花 あるじなしとて春なわすれそ


<なぎコメント>
『宝物集』でも道真の邸宅を“紅梅殿”と記されていません。
第五句“春なわすれそ”の初出作品のようです。



  ―鎌倉時代―

●承久元年(1219年)作成
『北野天神縁起絵巻(承久本)』巻3 (二十八紙の詞書)
        
 おさなき君達うちくして出給しにすみなれ給ける紅梅殿のなつかしさのあまりに心なき草木にもちきりをむすひ給ける
   
  こちふかはにおひおこせよむめのはな
  あるしなしてとてはるをわするな
   
  さくらはなぬしをわすれるものならは
  ふきこむかせにことつてはせよ

 さてこの御歌のゆへにつくしへこの梅はとひてまいりたりとて申侍るめる


<なぎコメント>
承久本『北野天神縁起絵巻』の絵には、邸内から紅梅を眺める道真の姿が描かれています。


『平安時代史事典』(角田文衞・監修/角川書店)の“紅梅殿”の項によりますと、弘安本『北野天神縁起』には

「承相の御家は五条坊門、西洞院。めでたき紅梅ありければ、後人、紅梅殿とぞ名付ける」

と記されているそうです。
邸に“紅梅”があったから“紅梅殿”という名前なのですね。
弘安本『北野天神縁起絵巻』は弘安元年(1278年)作成とみられています。



●宝治元年頃(1247年頃)?成立
『源平盛衰記』巻第三十二
 
 住みなれし故郷の恋しさに、常は都の空をぞ御覧じける。頃は二月の事なるに、日影長閑に照らしつつ、東風の吹きけるに思し召し出づる御事多かりける中に、
   
  こち吹かばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春を忘るな

と詠じければ、天神の御所高辻東洞院紅梅殿の梅の枝割け折れて、雲井遥かに飛び行きて、安楽寺へぞ参りける。


<なぎコメント>
他の作品では、京の邸宅(紅梅殿)で詠まれたとされていますが、『源平盛衰記』では太宰府の安楽寺で詠まれたことになっています。安楽寺は道真の死後、道真の墓所の上に建立されたお寺ですので、それはありえませんよね。(安楽寺は現在の太宰府天満宮です。)また、本文に東洞院とありますが西洞院が正しいと思われます。
『源平盛衰記』では物語だけに、ドラマチックに描かれています♪



●建長4年(1252年)成立
『十訓抄』第六 忠直を存ずべき事
            
   菅家、大宰府におぼしめしたちけるころ、   

  東風吹かばにほひおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ

とよみおきて、都を出でて、筑紫に移り給ひてのち、かの紅梅殿、梅の片枝、飛び参りて、生ひ付きにけり。


<なぎコメント>
年少者向けの説話集です。
第五句が“春なわすれそ”となっています。
梅の貞節を説いた文です。



●建長6年(1254年)成立
『古今著聞集』
 671 松樹を貞木と稱する事并びに菅原道眞太宰府にして我が宿の梅を詠む事


  菅家太宰府におぼしめしたちける此、

 こちふかばにほひをこせよ梅花 あるじなしとて春なわすれそ

とよみをき給て、みやこをいでゝ、つくしにうつり給てのち、かの紅梅殿の梅の片枝とびまいりて、をひつきにけり。


<なぎコメント>
同じく説話集。
飛梅のエピソードが『十訓抄』とほぼ同じです。



  ―南北朝時代―

●応安4年頃(1371年頃)成立
『太平記』巻第十二 大内裏造営事付聖廟御事

年久ク住馴給シ、紅梅殿ヲ立出サセ玉ヘバ、明方ノ月幽ナルニ、ヲリ忘タル梅ガ香ノ御袖ニ餘リタルモ、今ハ是ヤ古郷ノ春ノ形見ト思食ニ、御涙サヘ留ラネバ、

 東風吹バ匂ヲコセヨ梅ノ花 主ナシトテ春ナ忘レソ

ト打チ詠給テ、( ~略~ )。心ナキ草木マデモ馴シ別ヲ悲ケルニヤ、東風吹風ノ便ヲ得テ、此梅飛去テ配所ノ庭ニゾ生タリケル。サレバ夢ノ告有テ、折人ツラシト惜マレシ、宰府の飛梅是也。


<なぎコメント>
配所=大宰府で道真が過ごした“府の南館”。現在の太宰府市にある榎社の地。
宰府=大宰府のこと。




このように比較するとおもしろいですね。


【本文引用】
拾遺和歌集:新日本古典文学大系7/岩波書店/小町谷照彦 校注
大鏡 :日本古典文学全集20/小学館/橘健二 校注
宝物集:『宝物集・閑居友・比良山古人霊託』新日本古典文学大系40/岩波書店/小泉弘・山田昭全・ 小島孝之・木下資一 校中
北野天神縁起:日本絵巻大成21/中央公論社/小松茂美 編
源平盛衰記:『新定 源平盛衰記』第四巻/新人物従来社/水原一 考定
十訓抄:新編日本古典文学全集51/小学館/浅見和彦 校注・訳
古今著聞集:日本古典文学大系84/岩波書店/永積安明・島田勇雄 校注
太平記:『太平記一』/日本古典文学大系34/岩波書店/後藤丹治・釜田喜三郎 校注

(注)引用させていただくにあたって、一部、旧字を新字に変更した部分があります。

なぎ のコメント はあくまでも私の印象です。
詳細を知りたいと思われる方は
それぞれの作品をご覧の上、ご確認下さいませ。



【お知らせ】TABICAにホストとして登録しました!

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平安時代好きブロガー・『源氏物語』史跡ナビゲーターのなぎです。

先日、TABICA(たびか)この体験が、旅になる というサービスがあるのを知りました。
TABICAの公式サイトに掲載されている文章を引用します。


 TABICAでは様々な体験を検索・予約することができますが、ただの体験予約サイトではありません。
 TABICAは「人のスミカを旅する」という言葉から作られました。



とても興味深いです。

長らく『源氏物語』ゆかりの地を少しでも多くの方に知って親しんでいただきたい
ご一緒に史跡や寺社を散策して『源氏物語』の時代に思いを馳せたり
平安時代と現在の様子を比較していろんな発見を共有したいと思ってきました。


ひょっとして私もホストになれるのでは!?
…なんて思いまして早速、TABICAのホストとして登録させていただきました。


 TABICA公式サイト
 ⇒ https://tabica.jp/

 なぎ のプロフィールページ
 ⇒ https://tabica.jp/users/38894




ご参考までに。
2016年以降に主催した歴史系オフ会タイトルです。

<京都市>

『源氏物語』の六条院を思いながら源融の河原院跡を歩きませんか?~どきっ!「塩竈」だらけの街~

創作平安王朝料理をいただく会 
(食後は京都御所や平安宮内裏跡を散策しました)

一条天皇皇后・定子ゆかりの地をめぐるオフ会


<佐賀県唐津市>

紫式部と唐津の意外な関係(トーク&歓談)



TABICAのホストとしてこれから企画したいと思っているのは
佐賀県唐津市の鏡地区を歩く体験です。

『源氏物語』や紫式部の和歌にも登場する、松浦なる鏡の神=鏡神社をお参りして
玉鬘が身を隠したと伝わる玉鬘古墳を訪ねたらどうかしら。

来年春に開催される「唐津のひいな遊び」古代の森会館会場の見学と合わせるのも楽しそう♪

決まりましたらこのブログでもお知らせいたしますね!
どうぞよろしくお願いします。


【TABICA】平安時代好きブロガーと「十二単着付け」を見学しませんか?|女性限定・12月2日(日)開催

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平安時代好きブロガー・『源氏物語』史跡ナビゲーターのなぎです。

TABICAに新体験を企画しました。
タイトルはこちら!

 【女性限定】平安時代好きブロガーと「十二単着付け」を見学しませんか?

 九州ではなかなか実物を見る機会がない十二単。
 北九州市立小倉城庭園にて12月2日(日)に1日限りで行われる「王朝装束 十二単着付け披露」をご一緒に見学しませんか?
 十二単に惹かれて20年以上の平安時代好きブロガーと楽しみましょう!

30%OFFクーポン付き体験ページ
⇒ https://tabica.jp/coupons/TC6571

体験ページ
⇒ https://tabica.jp/travels/6571

※参加申し込みの際、会員登録が必要です。



初めての試みなのでドキドキ緊張しています。
十二単についてご紹介するレジュメ(資料)もご用意しますので
お気軽に参加いただけましたら嬉しいです。







【トーク&歓談】「源氏物語ゆかりの地としての大宰府」開催しました♪

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平安時代好きブロガー・『源氏物語』史跡ナビゲーターのなぎです。

11月11日(日)のこと。

福岡県太宰府市にある太宰府館にて
【トーク&歓談】「源氏物語ゆかりの地としての大宰府」を開催しました。



当日は3名の方がお越しになり
『源氏物語』と大宰府の関係
『源氏物語』に登場する玉鬘が住んだ都市 大宰府
『源氏物語』に登場する大宰府とゆかりのある人物について
大宰府政庁跡や観世音寺などなど
お話させていただきました。

少人数での開催でしたので
みなさんと太宰府(大宰府)に関する
あれこれを楽しくお話できて幸せでした!

その節はありがとうございました。



 亥の子餅



11月のお菓子として『源氏物語』<葵>において
その名が登場する「亥の子餅」を今回ご用意しました。

「亥の子餅」はこの時期に和菓子屋さんに並ぶことが多いのですが
お店によって様々な相違点があっておもしろいです。

「亥の子餅」について当方のwebサイト『花橘亭~源氏物語を楽しむ~』内の
こちらのページでもご紹介しています。
ご興味をお持ちの方がいらっしゃいましたらご覧くださいませ。


今回は埼玉県桶川市にある栄屋菓子舗さんの「亥の子餅」をお取り寄せ。
お餅の食感、あんこの甘さ、きなこの甘さが絶妙!
とてもおいしくてご参加のみなさまにも喜ばれました。
ありがとうございます。

栄屋菓子舗 公式サイト
⇒ http://www.e-sakaeya.net/



太宰府は大好きな街のひとつです。
また太宰府でゆるっと何かおこないたいです。

【太宰府】古代食「万葉御膳」をいただきました♪

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平安時代好きブロガー・『源氏物語』史跡ナビゲーターのなぎです。

11月11日(日)のこと。
午前中は『源氏物語』ゆかりの地としての大宰府の世界に浸った私たち。
午後からはさらに古い時代へタイムトリップ!


福岡県太宰府市では11月11日(日)に
大宰府史跡発掘50年記念ウォーク・イベント
「大宰府史跡ものがたり」というイベントが行われていました。

その一環で古代食「万葉御膳」が作られるということで
事前申し込みをして「万葉御膳」をいただいたのでした。



古代食「万葉御膳」



万葉人が食した饗宴の膳の再現だそうです。

箸置きは松葉、竹のお皿、そして梅の木で作られた箸
・・・なんとこれらは松竹梅になっているのでした。
現代の遊び心もあって嬉しいですね!



赤米の御飯

もっちりして噛むとお米のうま味が広がります。
添えてあるのは瓜の粕漬けです。



根菜のゆでもの 醤(ひしお)添え

大豆のイロリ(ゆで汁)で大根・蓮根・里芋・ゴボウ・ズイキをゆでたもの
醤を付けていただきました

※醤(ひしお)=調味料、醤油の元祖



蘇(そ)

牛乳を10分の1に煮詰めたもの

少しぱさつき感はあるものの濃厚なチーズといった感じ。
牛乳のうま味が凝縮!おいしいです。

奇しくも蘇をいただいた11月11日は「チーズの日」だそうで偶然に驚きです。



芋粥

山芋のそぎ切りを甘葛(あまづら)で煮たもの

今回は甘葛と同じ成分で作られた甘味料(だったな?うろ覚えです。すみません)で煮たそうです。
山芋の食感と甘みがおいしくていくらでも食べられそう♪



潮汁 アサリ汁



木菓子 <干柿、木連子(イタビ=イヌビワ)、棗(ナツメ)>



唐菓子 <環餅(マカリ)、結果(カクナワ)>

米粉や小麦粉を材料に、ゴマ油で揚げたもの

やや固めですがごま油の風味豊か。
さくっとしておいしいです。



お料理を研究・用意されるにあたって
とても大変だったことと思います。

どれもおいしくて幸せでした。

貴重な機会に参加できて嬉しいです。
ありがとうございました!!



【PICK UP】 『源氏物語』六条院 春の町 

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※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2004年頃)
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『源氏物語』光源氏の邸宅「六条院」を歩く>春の町



 『源氏物語』 六条院 春の町


 『源氏物語』において光源氏が造営した「六条院」は、4つの町に分かれており、それぞれ春夏秋冬の季節に合わせた庭が造られていました。
 春の町には紫の上、夏の町には花散里、秋の町には秋好中宮、冬の町には明石の君が住みました。


<宇治市源氏物語ミュージアムで撮影>



<宇治市源氏物語ミュージアム「六条院模型」 春の町部分>



源氏・紫の上・明石の姫君
<人形の写真はすべて風俗博物館で撮影>


 「春の町」は源氏と紫の上が住んだ住居で、「春大殿(はるのおとど)」・「南大殿(みなみのおとど)」・「南の町」ともいわれました。
 庭には、春の花が植えられ趣向が凝らされていました。

 「秋の町」とは池でつながっており、龍頭鷁首の船を行き来させて舞楽を楽しみました。早春の様子は生ける仏の御国のようでした。


 「春の町」は六条院の中心的存在であり、六條院行幸などの重要な儀式の際には「春の町」の寝殿が使用されました。


 紫の上は東の対に住み、明石の君が産んだ明石の姫君を養育していました。
(明石の姫君を養育していた期間のみ、紫の上は寝殿で過ごしたという説もあります。)


明石の姫君と紫の上



 源氏に降嫁した女三宮は、寝殿西面に住むことになりましたが、源氏の死後は父・朱雀院から受け継いだ三条宮に移り住みました。


出家した女三宮



 明石の姫君は入内し、中宮となります。里下がりした時にはこの「春の町」寝殿東面で過ごしました。つまり、寝殿は東西に仕切られて使用されていました。
 明石の中宮は出産の際は、「冬の町」で過ごしましたが、出産後は「春の町」の寝殿東面に移っています。

 紫の上・源氏の死後は、明石中宮の女一の宮が東の対に住み、二の宮(皇子)が寝殿を里邸としました。


 こうして「春の町」は源氏・紫の上の死後、明石一族の繁栄の象徴となりました。






【参考】
「源氏物語必携事典」 秋山虔・室伏信助 編/角川書店 発行
「源氏物語図典」   秋山虔・小町谷照彦 編/小学館 発行
「源氏物語を読む」  山中裕 編/吉川弘文館 発行




 夏の町
 秋の町
 冬の町



【PICK UP】 『源氏物語』六条院 夏の町 

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『源氏物語』光源氏の邸宅「六条院」を歩く>夏の町



 『源氏物語』 六条院 夏の町


 『源氏物語』において光源氏が造営した「六条院」は、4つの町に分かれており、それぞれ春夏秋冬の季節に合わせた庭が造られていました。
 春の町には紫の上、夏の町には花散里、秋の町には秋好中宮、冬の町には明石の君が住みました。


<宇治市源氏物語ミュージアムで撮影>



<宇治市源氏物語ミュージアム「六條院模型」 夏の町部分>



花散里
<人形の写真はすべて風俗博物館で撮影>


 「夏の町」は、花散里が住んだ住居で、「夏住居(なつのすまい)」・「東大殿(ひがしのおとど)」・「丑寅の町」ともいわれました。

 夏にふさわしい涼しげな泉があり、庭には花橘、撫子などが植えられていました。また、東側には端午の節句の遊び所として馬場殿があり、馬場は「春の町」まで続いている南北に長いものでした。

 花散里は、二条東院からこの六條院「夏の町」の東の対に移り住みました。花散里を母代わりとしていた源氏の子・夕霧はこの町を里邸として使用していました。


夕霧


 西の対には、京から筑紫へ下ったのち再び京に帰ってきて源氏の養女となった玉鬘が住んだ時期もありました。


玉鬘



左:玉鬘  右:夕霧

 夕霧と玉鬘はいとこ関係にあたりますので、ふたりの祖母である大宮の服喪中、御簾越しに対面する場面もあります。




 源氏の死後、花散里は二条東院を相続したため主不在となりましたが、夕霧が落葉の宮(夕霧の妻のひとり)をこの町に移り住まわせました。
 また夕霧は藤典侍との間に生まれた六の君を落葉の宮の養女とし、その婿として匂宮(今上帝と明石中宮の皇子)を迎えます。

 こうして、「夏の町」は、花散里→夕霧→落葉の宮→六の君へと伝領されていくのでした。








【参考】
「源氏物語必携事典」 秋山虔・室伏信助 編/角川書店 発行
「源氏物語図典」   秋山虔・小町谷照彦 編/小学館 発行
「源氏物語を読む」  山中裕 編/吉川弘文館 発行


 春の町
 秋の町
 冬の町




【PICK UP】 『源氏物語』六条院 秋の町 

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※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2004年頃)
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『源氏物語』光源氏の邸宅「六条院」を歩く>秋の町



 『源氏物語』 六条院 秋の町


 『源氏物語』において光源氏が造営した「六条院」は、4つの町に分かれており、それぞれ春夏秋冬の季節に合わせた庭が造られていました。
 春の町には紫の上、夏の町には花散里、秋の町には秋好中宮、冬の町には明石の君が住みました。


<宇治市源氏物語ミュージアムで撮影>


<宇治市源氏物語ミュージアム「六条院模型」 秋の町部分>



秋好中宮
<人形の写真はすべて風俗博物館で撮影>

 「秋の町」は、秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)が住んだ住居で、「中宮の御町」・「西大殿(にしのおとど)」・「未申の町」ともよばれました。

 もともと、「秋の町」は秋好中宮の母・六條御息所の邸宅跡地であり、それに手を加え、滝を造り広々とした秋の野のように造られました。

 また「秋の町」と「春の町」とは池でつながっていました。紫の上と秋好中宮は春秋優劣論をし、それぞれの使者である女童が廊を渡り、手紙のやりとりをしていました。


 明石の姫君の裳着(もぎ=成人式)は「秋の町」で行われ、秋好中宮が腰結役をつとめました。この時、秋好中宮と紫の上はここで初めて直接に対面します。



明石の姫君の裳の小腰を結ぶ秋好中宮


明石の姫君の育ての親である紫の上







 春の町
 夏の町
 冬の町



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