※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2004年)
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現況と異なる部分も含まれていることと思います。ご了承くださいませ。
「金印」出土の志賀島と志賀海神社
その1の続きです。
われは忘れじ志賀の皇神
志賀海神社
●所在地:福岡市東区志賀島877
●交通 :西鉄バス「志賀島」下車 徒歩10分
志賀島の東南にあり、万葉集にも詠まれている古い神社です。
「龍の都」・「海神の総本社」とも呼ばれ、海上安全の神として崇敬されています。
≪福岡市教育委員会による看板より≫
志賀海神社と文化財
志賀海神社は綿津海(わたつみ)三神を祀り、古来より海の守護神として信仰されてきました。海上交通の要所である玄界灘を臨む博多湾の入り口に鎮座し、海人部(あまべ)の伴造(とものみやつこ)として著名な阿曇(あずみ)族に奉祀されました。大同元年(806)には阿曇神に神封八戸が与えられ、貞観元年(859)には志賀海神に従五位上、また元慶4年(880)には賀津万神(志賀島勝馬の祭神)に従五位下の神階が授けられています。平安時代の『小右記』には志賀海神社社司の対宋交通が記され、中・近世には大内氏、小早川氏、黒田氏の加護を受けていたことが当社に伝えられた文書(福岡市指定文化財)によってわかります。
社蔵の鍍金鐘(国指定重要文化財)は高麗時代後期の特色がよく表れ、境内の完存する石造宝篋印塔(福岡県指定文化財)は銘文から貞和三年(北朝年号1347年)に造立の時期が考えられます。
この神社の神事のうち、1月下旬に厄疫退散と五穀豊穣、豊漁の意味を兼ねて行われる「歩射祭」、4月15日と11月15日の春秋に神功皇后伝説にちなんで狩漁を演じる「山ほめ祭」、10月初旬の夜間に遷幸・遷御と芸能が奉納される「神幸行事」はいずれも福岡県の無形民俗文化財に指定されています。
*参道沿いには万葉集に収められている「ちはやぶる鐘の岬を過ぎぬとも・・・」の歌碑があります。
ちはやぶる鐘の
岬を過ぎぬとも
われは忘れじ
志賀の皇神
※志賀の皇神(すめがみ)=志賀海神社の御祭神です。
≪看板より≫
万葉歌碑(志賀島第一号歌碑)
ちはやぶる鐘(かね)の岬を過ぎぬとも
われは忘れじ志賀の皇神(すめがみ)
(巻七・一二三〇)
「航海の難所である鐘の岬を過ぎたとしても、わたしは海路の無事をお願いしたこの志賀の神様を忘れません。」という意味の歌です。
ちはやぶるとは狂暴なとか勢いが強い意味とされ、鐘の岬は現在の宗像市鐘崎(かねざき)の織幡(おりはた)神社が鎮座する岬で、対峙する地島(じのしま)との間の瀬戸は航海の難所でした。志賀島から船出して奈良の都へ向かう官人が詠んだものです。
(この地図は私が作成しました)
私が上記の歌のことを知ったのは『源氏物語』がきっかけでした。
この歌は、『源氏物語』<玉鬘>巻において、玉鬘と乳母(めのと)一家が筑紫へ向かう船旅の場面にて、乳母の「口癖となった言葉」のもととなった歌なんです。
金の御崎過ぎて、「われは忘れず」など、世とともの言種になりて
“船旅で鐘の岬(福岡県宗像市鐘崎にある岬)を過ぎてから乳母は万葉集の「ちはやぶる金の岬を過ぎぬとも われは忘れじ志賀の皇神」という歌を思い出して、『われは(都から離れようとも玉鬘の母である夕顔のことを)忘れず』などと、明けても暮れても口ぐせになって”
と作中に書かれているんですよ~。
この歌を知ってから、志賀の皇神を祀る志賀海神社を訪ねてみたいと思っていたんです♪
志賀海神社 楼門
境内には雌雄の鹿の像があります。
鹿角庫(ろくかくこ)
鹿角庫の中は、鹿のツノがぎっしり収められていました。
≪看板より≫
その昔、神功皇后が対馬にて鹿狩りをされその角を多数奉納されたことが起源とされる。
鹿の角は、祈願成就の御礼に奉納され、中にはウキを付けて海に流されてきたものを漁師が拾い上げ奉納したものなどがある。現在では約一万本以上を数える。
※志賀島の地名は「鹿の島」ではなく「近い島」が「チカシマ→シカシマ→シカノシマ」と訛ったものである
拝殿にて参拝。
裏手には摂社がたくさんありました。
木々に囲まれていながら潮騒の聞こえる厳かでとても心地よい神社でした。
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「金印」出土の志賀島と志賀海神社
その1の続きです。
われは忘れじ志賀の皇神
志賀海神社
●所在地:福岡市東区志賀島877
●交通 :西鉄バス「志賀島」下車 徒歩10分
志賀島の東南にあり、万葉集にも詠まれている古い神社です。
「龍の都」・「海神の総本社」とも呼ばれ、海上安全の神として崇敬されています。
≪福岡市教育委員会による看板より≫
志賀海神社と文化財
志賀海神社は綿津海(わたつみ)三神を祀り、古来より海の守護神として信仰されてきました。海上交通の要所である玄界灘を臨む博多湾の入り口に鎮座し、海人部(あまべ)の伴造(とものみやつこ)として著名な阿曇(あずみ)族に奉祀されました。大同元年(806)には阿曇神に神封八戸が与えられ、貞観元年(859)には志賀海神に従五位上、また元慶4年(880)には賀津万神(志賀島勝馬の祭神)に従五位下の神階が授けられています。平安時代の『小右記』には志賀海神社社司の対宋交通が記され、中・近世には大内氏、小早川氏、黒田氏の加護を受けていたことが当社に伝えられた文書(福岡市指定文化財)によってわかります。
社蔵の鍍金鐘(国指定重要文化財)は高麗時代後期の特色がよく表れ、境内の完存する石造宝篋印塔(福岡県指定文化財)は銘文から貞和三年(北朝年号1347年)に造立の時期が考えられます。
この神社の神事のうち、1月下旬に厄疫退散と五穀豊穣、豊漁の意味を兼ねて行われる「歩射祭」、4月15日と11月15日の春秋に神功皇后伝説にちなんで狩漁を演じる「山ほめ祭」、10月初旬の夜間に遷幸・遷御と芸能が奉納される「神幸行事」はいずれも福岡県の無形民俗文化財に指定されています。
*参道沿いには万葉集に収められている「ちはやぶる鐘の岬を過ぎぬとも・・・」の歌碑があります。
ちはやぶる鐘の
岬を過ぎぬとも
われは忘れじ
志賀の皇神
※志賀の皇神(すめがみ)=志賀海神社の御祭神です。
≪看板より≫
万葉歌碑(志賀島第一号歌碑)
ちはやぶる鐘(かね)の岬を過ぎぬとも
われは忘れじ志賀の皇神(すめがみ)
(巻七・一二三〇)
「航海の難所である鐘の岬を過ぎたとしても、わたしは海路の無事をお願いしたこの志賀の神様を忘れません。」という意味の歌です。
ちはやぶるとは狂暴なとか勢いが強い意味とされ、鐘の岬は現在の宗像市鐘崎(かねざき)の織幡(おりはた)神社が鎮座する岬で、対峙する地島(じのしま)との間の瀬戸は航海の難所でした。志賀島から船出して奈良の都へ向かう官人が詠んだものです。
(この地図は私が作成しました)
私が上記の歌のことを知ったのは『源氏物語』がきっかけでした。
この歌は、『源氏物語』<玉鬘>巻において、玉鬘と乳母(めのと)一家が筑紫へ向かう船旅の場面にて、乳母の「口癖となった言葉」のもととなった歌なんです。
金の御崎過ぎて、「われは忘れず」など、世とともの言種になりて
“船旅で鐘の岬(福岡県宗像市鐘崎にある岬)を過ぎてから乳母は万葉集の「ちはやぶる金の岬を過ぎぬとも われは忘れじ志賀の皇神」という歌を思い出して、『われは(都から離れようとも玉鬘の母である夕顔のことを)忘れず』などと、明けても暮れても口ぐせになって”
と作中に書かれているんですよ~。
この歌を知ってから、志賀の皇神を祀る志賀海神社を訪ねてみたいと思っていたんです♪
志賀海神社 楼門
境内には雌雄の鹿の像があります。
鹿角庫(ろくかくこ)
鹿角庫の中は、鹿のツノがぎっしり収められていました。
≪看板より≫
その昔、神功皇后が対馬にて鹿狩りをされその角を多数奉納されたことが起源とされる。
鹿の角は、祈願成就の御礼に奉納され、中にはウキを付けて海に流されてきたものを漁師が拾い上げ奉納したものなどがある。現在では約一万本以上を数える。
※志賀島の地名は「鹿の島」ではなく「近い島」が「チカシマ→シカシマ→シカノシマ」と訛ったものである
拝殿にて参拝。
裏手には摂社がたくさんありました。
木々に囲まれていながら潮騒の聞こえる厳かでとても心地よい神社でした。