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【奈良】奈良の雑貨とカフェBAR ことのまあかりにて削氷『氷高』をいただきました♪

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2018年8月の奈良旅行でのこと。

奈良市にある
奈良の雑貨とカフェBAR「ことのまあかり」さんを訪ねて
削氷(けずりひ)『氷高』をいただきました。



ことのまあかりさんの入口





鋺(かなまり=金属製の椀)に入っている削氷(けずりひ=かき氷)が涼しげ。
シロップをかけて金の匙でいただきます


きらめく琥珀糖が可愛い。
かき氷のなかにアイスが入っているのでした。

おいしかったです!!



『枕草子』「あてなるもの(=高貴なもの)」に登場する文章が脳裏に浮かびます。


  削り氷(けずりひ)に甘葛(あまづら)入れて、あたらしき鋺(かなまり)に入れたる。

  (削り氷に甘葛(あまづら)を入れて、新しい金属製の碗に入れてあるの。)

※「新編日本古典文学全集18 枕草子」小学館発行 より


現代でいうところのかき氷に甘葛(あまづら)をかけて
新しい金属製の碗に入れてあるのを高貴なもののひとつとして
清少納言は挙げています。


鋺(かなまり)に入った削氷を食べて
優雅な気持ちになれますね!





 オススメの本。

 

 奈良で出会う 天皇になった皇女たち



【奈良】万葉文化館にて「マンガで語る古代大和―学術と創造の融合―『天上の虹』にみる創造の世界」鑑賞

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2018年8月の奈良旅行でのこと。

奈良県高市郡明日香村飛鳥にある
奈良県立万葉文化館を訪ねました。

現在、
特別展「マンガで語る古代大和―学術と創造の融合―『天上の虹』にみる創造の世界」開催中!
~9月30日(日)まで。




中学時代に友達からすすめられた
漫画「天上の虹」を読んだのがきっかけで
古代に興味を持つようになりました。

「天上の虹」の続きを知りたいあまりに
天皇家の系図を自作してみたり…。



この度、憧れの地“飛鳥”で
「天上の虹」の原稿を見られるとあらば行きたい!
と思い8年ぶりに飛鳥を訪ねました。


乙巳の変から壬申の乱まで1巻から7巻までの
「天上の虹」原稿がずらりと並び
パネルでは学術資料と里中さんの創作部分について
それぞれが解説されており大変興味深く拝見しました。


原稿から漫画の技法をうかがい知ることもできて大興奮。
昔、テレビで里中満智子さんによる漫画の描きかた講座が
放送され熱心に見ていたので懐かしい思いがしました。



歴史的にも漫画の技術的にも幸せに満ちた時間をいただけました。
万葉文化館に行くことができて本当によかったです。


ミュージアムショップで
「天上の虹」クリアファイルと『麦縄菓子』(後日ブログにupします)を
買えてほくほく。





万葉文化館 入口のせんとくん





敷地内でうま味がしみしみのこんにゃく「かめこん」を食べました。
亀のかたちをしています。
おいしかったですよー!!






 バスの車窓から遥拝(?)

天武・持統天皇陵をバスから見ることが出来ました。





次回、飛鳥を訪ねる時にはゆっくりお参りしたいと思います。



【奈良】そうめんのルーツ!?「麦縄(むぎなわ)菓子」

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2018年8月の奈良旅行でのこと。

奈良県立万葉文化館のミュージアムショップにて
「三輪そうめん 山本」の『麦縄菓子(むぎなわがし)』を買いました。



*☆*―――――――――――――――――――――――――――*☆*

 麦縄菓子(国産小麦使用)

 古来大陸より伝来した小麦での麺作りは、一方では細いそうめんとして、
 又一方では原型を留めた形で菓子として今も親しまれています。
 そうめんと同じルーツから派生した麦縄菓子の味をお楽しみください。

*☆*―――――――――――――――――――――――――――*☆*


油菓子なので歯ごたえはバリバリボリボリという感じ。
ほんのり塩味。
噛むほどに小麦粉のうま味が口いっぱいに広がります。
癖になりそうな素朴なおいしさ。

何本でも食べられそうです(笑)



奈良旅行中、素麺(そうめん)もいただいたのでした。





麦縄(むぎなわ)は索餅(さくべい)とも呼ばれています。




 索餅とは

『平安時代史事典』より

“小麦粉と米粉を水で練り、それに塩を混ぜて縄状にした食品。
その形状から麦縄{むぎなわ}ともいう。乾燥して保存し、
茹でて醤・未醤・酢などに付けて食したらしい。”

“七月七日の七夕には瘧除{ぎやくよ}けのため食され、
そののち素麺がこれに代わって長い伝統となった。”




索餅を運ぶ女房(写真は風俗博物館の過去の展示の様子です)

平安時代の索餅[麦縄]は油で揚げたものではなかったのですね。
唐菓子のひとつと言われているので油を使っている印象がありました。



『風俗博物館』のサイト内のページより

“鎌倉時代から室町時代になると、七夕の食べ物として
あったこの索餅の位置に「素麺(そうめん)」が取って
代わるようになる。油などを利用して小麦粉が伸びる
性質を利用して素麺が作られていることを考えると、
索餅は素麺の原型であったようだ。”




平安時代、七夕に索餅が食べられていたけれども
中世以降、七夕には素麺が食べられるようになったのですね。

その転換期が気になるところです。


食べ物の文化や歴史も興味深いです~。

【奈良】コッコロ*カフェでランチ

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2018年8月の奈良旅行でのこと。

近鉄「飛鳥」駅近くにある
コッコロ*カフェをお訪ねしてランチをいただきました。


外観も内装も素敵!




 野菜と鶏ひき肉の煮物
 キノコの衣揚げ
 キャベツと生姜の甘酢漬け
 キュウリとセロリの塩麹和え
 かぼちゃと枝豆のマリネ
 野菜のトマト煮
 とうもろこしの冷製スープ
 雑穀ごはん
 気まぐれミニジュース


どれもおいしい&ヘルシー!!
一番気に入ったのはとうもろこしの冷製スープ。

この量でお値段もリーズナブルでした。


またお訪ねしたいです。





【京都】法金剛院の蓮(2018年8月8日撮影)

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2018年8月の京都旅行でのこと。

京都市右京区、JR花園駅近くにある
法金剛院をお詣りしました。

見ごろ終盤の蓮も楽しむことができてよかったです。



















 青女の滝





 待賢門院堀河の歌碑







*取り急ぎ写真のみのup。
詳細は後日追記します。

【体験】天平時代・白拍子 装束体験会に参加しました♪

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2018年8月のこと。

福岡県北九州市、
足立山妙見宮で開催された
「天平時代・白拍子 装束体験会」に
参加させていただきました。

女人舞楽原笙会さんによる体験会です。
私は天平衣装でお願いしました。

※写真撮影は同行してくれた友達によるものです。



当日サプライズ!
ご厚意で私の髪とつけ毛を用いて双髻(そうけい)に結っていただきました。
思いがけずびっくり。






額には花鈿(かでん)もかいていただきました。


胸もと







領巾[比礼](ひれ)も素敵!











領巾[比礼](ひれ)を振って気分は松浦佐用姫!?


※参考:鏡山<領巾振山>山頂にある松浦佐用姫像です。


大伴狭手彦との別れを惜しみ領巾(ひれ)を振る姿。






 ご一緒した友達は白拍子姿に




麗しい!!




楽しく貴重な時間を過ごすことができました。
ありがとうございました。



【京都】京都文化博物館にて企画展「平安博物館回顧展」鑑賞

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2018年8月の京都旅行でのこと。

京都市中京区にある
京都府立京都文化博物館にて開催中の
企画展「平安博物館回顧展―古代学協会と角田文衞の仕事―」を鑑賞しました。

”平安博物館でかつて展示された貴重な資料の数々や研究成果を
回顧するとともに、その設立・運営にあたった古代学協会の歴史と
最新の活動、さらに同協会を率いた角田文衞の没後十年にあたり氏の
仕事などを紹介”



ギャラリートークも拝聴。

どんな博物館だったのか長年気になっていた
平安博物館について知ることができてよかったです。

時代を先取りしたかのような角田文衛先生の
熱い情熱を感じました。


※キャプション・パネルを除き展示物の撮影可能





平安博物館ポスター



耳皿



清涼殿 荒海障子 復元(手長足長が書かれています)


清涼殿 荒海障子 復元(宇治の網代が描かれています)




東三条殿復原模型 前から


東三条殿復原模型 後ろから
あらゆる角度から見ることができて嬉しかったです。




今回の企画展でメインビジュアルに使われた
「天徳内裏歌合 想定図」
実物の絵は思っていたより小さかったものの美しい!




とても興味深くおもしろい展示でした。
この企画展は9月9日(日)までです。



【情報】北九州市 妙見宮にて「雅楽の夕べ」開催 9月30日(日)

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雅楽の公演情報です。

北九州市小倉北区にある妙見宮(御祖神社)神楽殿にて
いにしえの雅な舞と演奏「雅楽の夕べ」が開催されます。

 9月30日(日) 15時開演 16時終演
 ※観覧無料

<出演>
女人舞楽原笙会
天理関門雅楽会


<演目>
舞楽『陪臚(序・破)』『桃李花』
管絃『五常楽急』




私も見に行きます。
楽しみです!!


【お茶会】唐津ゲストハウス 少女まんが館Saga テーマ「『あさきゆめみし』と唐津」

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2018年8月26日のこと。

佐賀県唐津市にある
唐津ゲストハウス少女まんが館Sagaのお茶会にて講師として
「『あさきゆめみし』と唐津」についてお話させていただきました。

7名の方がご参加になり楽しいお茶会でした。
ありがとうございました!!






お茶会では
古代のチーズともいわれる「蘇(そ)」を
みなさんでいただいたり
素麺のルーツといわれる「麦縄菓子」をいただいたり(写真を撮り忘れました)



フレッシュなマスカットのケーキをいただいたり



冷やしぜんざいをいただいたりして




おいしくて幸せなひとときを過ごさせていただきました♪

ドリンクのなかでは少女まんが館館主さまお手製の
梅ジュースがおいしくておかわりしちゃいました。

みなさまとあれこれお話できて幸せでした。
ありがとうございます!


【PICK UP】『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?藤原高藤と宮道列子のロマンスの地 <京都市山科区>

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※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2009年)
ホームページサービス終了により当ブログへ移動しました。



 『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?
 藤原高藤と宮道列子のロマンス<京都市山科区>

『源氏物語』において、桐壺帝の皇子として生まれた光源氏と受領階級出身である明石の君は明石(兵庫県)で結ばれ、光源氏が帰京してのち明石の君は明石の姫君を産みます。

やがて光源氏の手元にひきとられた明石の姫君は東宮(とうぐう=皇太子)の妃として入内し、第一皇子を出産。やがて夫の東宮は帝として即位。明石の姫君が産んだ第一皇子が新たな東宮に立ち、明石の姫君自身は女御から中宮になるのでした。

このことにより、光源氏は権力が増大します。

帝と明石の中宮との関係は良好で四人の皇子と一人の皇女に恵まれます。


光源氏と明石の君との身分違いの恋は、『今昔物語集』に描かれている藤原高藤(ふじわらのたかふじ)と宮道列子(みやじのつらこ・たまこ・れっし)の恋がモデルになっているという説があるそうです。

藤原高藤は、藤原北家の嫡流・藤原冬嗣の孫。
宮道列子は、山城国宇治郡(ぐん)大領(たいりょう=長官)である宮道弥益(みやじのいやます)の娘でした。

※ふたりのロマンスについては後述します。

高藤と列子は身分の差が大きいものの山科で結ばれ、高藤が列子と会えない間に胤子(たねこ・いんし)という娘が誕生します。
胤子は宇多天皇の妻となりのちの醍醐天皇をもうけます。

宇多天皇と胤子の間には、のちの醍醐天皇をふくめた四人の皇子と一人の皇女に恵まれました。



以下の系図をご覧下さい。


 実在した藤原高藤と宮道列子 系図



 『源氏物語』光源氏と明石の君 系図





実在した人物と『源氏物語』の登場人物との類似点

 藤原高藤 ⇔ 光源氏 ・・・天皇(東宮)の外祖父となり出世

 宮道列子 ⇔ 明石の君・・・天皇(東宮)の外祖母となる

 藤原胤子 ⇔ 明石の中宮・・母の身分は低いものの天皇のキサキとなる。次代の天皇となる第一皇子を出産。天皇の母となる。
 




『今昔物語集』 巻第二十二 本朝
 高藤の内大臣の語(たかふじのないだいじんのかたり)より

【あらすじ】

藤原冬嗣の孫で良門の子である藤原高藤は「鷹狩」を好んでいました。
高藤が15~16歳の頃の秋、京から北山科へ鷹狩に行っていたところ、にわか雨と雷鳴に見舞われました。

風雨を避けるために一夜の宿をかりたのが、宮道弥益(みやじのいやます)の邸宅でした。高藤は歓待され、13歳~14歳くらいの美しく愛らしい少女に出会います。
高藤は、将来を約束し少女と一夜を共にするのでした。

朝になり、高藤は腰につけていた太刀を形見として置き、決して少女が他の男と結婚しないよう、後ろ髪をひかれる思いで言い置きます。この少女が宮道弥益の娘・列子でした。

京に戻った高藤は、父から遠出を禁じられます。列子を恋しく思い、妻をめとらず、北山科を訪ねることができないまま6年ほどが経ちました。

機会を得て、再び高藤が宮道弥益邸を訪ねてみると、成長した列子と列子のそばに5~6歳ほどのかわいらしい女の子がいました。それは一夜の契りで授かった高藤と列子の娘だったのでした。

枕元をみると、高藤が置いた太刀がそのままにありました。

高藤から見れば、列子ははるか下流階級の者の娘ではありますが、列子との縁は前世の契りが深かったからに違いないと思い、高藤は京に宮道列子と娘の胤子を迎えます。

胤子は宇多天皇の女御となり、のちの醍醐天皇を産みました。

醍醐天皇の即位にあたって、祖父である高藤は大納言から内大臣になります。

高藤と列子が出会った宮道弥益の邸宅は寺に改められました。これが現在の勧修寺です。

宮道弥益の妻によって勧修寺の東の山側に大宅寺(おおやげでら)が建立されました。

醍醐天皇は勧修寺<宮道弥益邸宅跡>のあたりに思いを寄せられたことから、近くに陵があるということです。





上記の“物語”は完全な事実に基づくものではなく、宮道弥益の実際の身分や藤原高藤と宮道列子の婚姻時期など不確かではあります。

しかしながら、ふたりの娘である藤原胤子が醍醐天皇の生母となったことで、藤原高藤の一族は繁栄しました。
列子との間に生まれた次男・藤原定方は右大臣に至り「三条右大臣」の名で歌人としても知られます。



勧修寺を中心に藤原高藤と宮道列子ゆかりの地を訪ねました。
次回は京都市山科区のロマンスの地をご案内します。




 勧修寺へ続きます。


【PICK UP】『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!? 藤原高藤と宮道列子のロマンスの地 勧修寺<宮道弥益邸宅跡>

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※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2009年)
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 『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?
 藤原高藤と宮道列子のロマンスの地

 勧修寺<宮道弥益邸宅跡>

●所在地:京都市山科区勧修寺仁王堂町
●交通 :地下鉄「小野」駅下車 徒歩10分



勧修寺(かじゅうじ)は、京都市山科区にある真言宗山階派の大本山で、山号は亀甲山と称します。
寺名は「かじゅうじ」と読み、周辺地名の「勧修寺」は「かんしゅうじ」と読みます。


勧修寺の起こりについては、いくつかの説があるようです。

 ●宇多天皇女御である藤原胤子(たねこ・いんし)の発願により、胤子の外祖父である宮道弥益の邸宅跡に寺を建立した。

 ●醍醐天皇が若くして亡くなった母・藤原胤子を弔うために外曾祖父である宮道弥益の邸宅を寺に改めた。
 
 ●醍醐天皇が母・藤原胤子の御願を継いで宮道弥益の邸宅を寺として建立された。


いずれにしても、宮道弥益(みやじのいやます)の邸宅があった地に寺を建立したことに変わりはないようです。

この宮道弥益の邸宅こそが、『今昔物語集』にみられる藤原高藤と宮道列子が出会い、藤原胤子が誕生したとされる地です。
まさにロマンスの地ですね♪

藤原高藤の諡号(しごう)から、勧修寺と号します。





勧修寺は、皇室と藤原氏の援助を受けて繁栄し、のちには門跡寺院として代々、法親王が入寺されていました。
現在、勧修寺内にある建物は江戸時代のもので、“氷室の池”のそばにある観音堂は昭和初期の建立です。





この駒札に記されているように、『源氏物語』の作者・紫式部は、藤原高藤と宮道列子の子孫です。
紫式部の夫・藤原宣孝もまた子孫にあたります。

紫式部は『源氏物語』の作中において、実在した人物をモデルとして登場させたり、実際に起こった事件を下敷きにしたりしていますので、先祖のロマンスから何らかの影響を受けていたとしても不思議はないと思います。




※醍醐天皇の同母弟・敦慶親王は『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人といわれています。
⇒光源氏のモデル・敦慶親王



勧修寺 宸殿


勧修寺はみどころが多いお寺です。

『勧修寺庭園』と呼ばれる庭園の中心に「氷室の池」があります。
平安時代には、毎年一月二日にこの池に張る氷を宮中に献上し、その氷の厚さによってその年の五穀豊穣を占ったと言い伝えられているそうです。





次は勧修寺の南にある宮道神社をご紹介します。

 宮道神社へ続きます。


【PICK UP】『源氏物語』光源氏のモデルのひとり 敦慶親王

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※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2009年)
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藤原高藤と宮道列子のロマンス勧修寺



 『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルのひとり
 敦慶親王


宇多天皇の第四皇子・敦慶(あつよし)親王は、「容姿美麗、好色絶倫なり」と評され、「玉光宮(たまひかるみや)」とも称されました。
その生涯から『源氏物語』の光源氏のモデルのひとりとされています。

父・宇多天皇に寵愛された歌人の伊勢との恋愛、兄・醍醐天皇の女御だった藤原能子との恋愛・・・。

その生き方が光源氏を彷彿とさせます。






敦慶親王 (あつよししんのう)
888年(仁和3年)~930年(延長8年)2月28日

父は、宇多天皇。
母は、贈皇太后藤原胤子。

宇多天皇の第四皇子で、醍醐天皇の同母弟である。

896年(寛平8年)、母の藤原胤子が卒去し、宇多天皇の女御・藤原温子(ふじわらのよしこ・おんし)の猶子となる。
温子の一人娘で異母妹である均子内親王と結婚。

中務卿、式部卿 などを歴任。二品に叙される。
管弦詩歌に秀でており、醍醐朝の文化興隆に貢献した。

兄の醍醐天皇・叔父の藤原定方・定方の従兄弟である藤原兼輔らと文化的な親交があった。





≪敦慶親王が愛した女性たち≫

 均子内親王 (きんしないしんのう)
890年(寛平2年)~910年(延喜10年)

父は、宇多天皇。
母は、宇多天皇中宮藤原温子。(更衣→女御→中宮)

敦慶親王の異母妹にあたり敦慶親王の正妃となる。

歌人の伊勢は、温子と均子内親王に仕えた女房。




 孚子内親王 (さねこないしんのう)
生年不明~958年(天徳2年)4月28日

父は、宇多天皇。
母は、宇多天皇更衣徳姫女王。

敦慶親王の異母姉妹にあたる。
歌人としてすぐれていた。

孚子内親王は敦慶親王との恋ののち、源嘉種と偲ぶ恋をしたという。




 藤原 能子 (ふじわらのよしこ)
生年不明~964年(応和4年)

父は、三条右大臣藤原定方。

いとこである醍醐天皇の更衣として入内。

913年(延喜13年)10月8日、更衣から女御へ。
三条御息所または衛門御息所と呼ばれた。

醍醐天皇の崩御後、醍醐天皇の弟・敦慶親王と通じ、のちには藤原実頼の妻となる。

歌人としてすぐれていた。

※但し、同時代に生きた藤原能子と藤原仁善子の読みが同じ「よしこ」であるため、記録に混同がみられる。




 伊勢 (いせ)
877年(元慶元年)頃?~939年(天慶2年)頃?

父は、藤原継蔭(つぐかげ)。

平安中期の女流歌人。
伊勢の名は、父の藤原継蔭が伊勢守であったことにちなむ。

伊勢の御息所(みやすどころ)、伊勢の御(いせのご)とも呼ばれた。

宇多天皇中宮藤原温子に仕え、温子の弟・藤原仲平(なかひら)と恋愛。
のちに宇多天皇の寵愛を受け、親王を出産するが早世する。

温子崩御後、宇多天皇の皇子・敦慶親王との間に、娘の中務(なかつかさ)を産む。中務もまた、歌人として活躍した。
中務の名は、敦慶親王が中務卿であったことにちなむ。

伊勢は、宇多・醍醐・朱雀三代にわたって歌人として活躍。
歌集『伊勢集』を遺す。
※『伊勢集』は『源氏物語』にも深く影響を与えている。

*『百人一首』に撰ばれている歌

 難波潟 みじかき葦の ふしの間も
  あはでこの世を 過ぐしてよとや





【参考】
「もっと知りたい源氏物語」著:大塚ひかり/発行:(株)日本実業出版社
「平安時代史事典CD-ROM版」監修:角田文衞/編:(財)古代学協会・古代学研究所/ 発行:(株)角川学芸出版
「カラー小倉百人一首」  編著:島津忠夫・櫟原聰/発行:(株)京都書房

【PICK UP】 藤原高藤と宮道列子のロマンスの地 宮道神社

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※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2009年)
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藤原高藤と宮道列子のロマンス勧修寺



 『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?
 藤原高藤と宮道列子のロマンスの地

 宮道神社


●所在地:京都市山科区勧修寺仁王堂町
●交通 :地下鉄「小野」駅下車 徒歩10分




勧修寺(かじゅうじ)の南に宮道神社(みやじじんじゃ)が鎮座しています。
宮道神社は、さまざまなご縁結びの願いを叶えてくださる神社だそうです。




宮道神社は、898年(寛平10年)に創祀され、宮道大明神または二所大明神とも称されました。
後世、宮道弥益と娘の列子、列子の夫である藤原高藤とゆかりの人々を合祀されました。

<御祭神>
日本武尊(やまとたけるのみこと)・・・宮道氏の祖神
稚武王 (わかたけのみこ) ・・・日本武尊の子

<のちに合祀された御祭神>
宮道弥益(みやじのいやます) ・・・胤子の外祖父 
宮道列子(みやじのたまこ) ・・・胤子の母 
藤原高藤(ふじわらのたかふじ) ・・・胤子の父
藤原胤子(ふじわらのたねこ) ・・・醍醐天皇の母
藤原定方(ふじわらのさだかた) ・・・三条右大臣

など、勧修寺ゆかりの人々






『小倉百人一首』 三条右大臣(藤原定方)歌碑

 名にし負はば 逢坂山の さねかづら
  人に知られで くるよしもがな


宮道神社のご祭神のひとりである藤原定方(ふじわらのさだかた)の歌碑が建立されています。
藤原高藤と宮道列子の間に生まれた次男・定方は、右大臣となり、邸宅が三条坊門小路の北面にあったため、「三条右大臣」と呼ばれました。



京都市山科区において勧修寺ゆかりの人物の墓・供養塔が伝わっています。

 ゆかりの人々お墓参りへ続きます。



【PICK UP】 藤原高藤と宮道列子のロマンスの地 勧修寺ゆかりの人々お墓参り

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※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2009年)
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藤原高藤と宮道列子のロマンス勧修寺宮道神社



京都市山科区内には、勧修寺ゆかりの以下の人物の墓・供養塔が伝わっています。
現在も地元の方々に大事にされている様子がうかがえますね。


宮道弥益夫妻の墓

●所在地:京都市山科区
 
宮道弥益は藤原高藤の妻となった宮道列子の父。
宇多天皇の女御・藤原胤子<贈皇太后>の外祖父。
醍醐天皇の外曾祖父。

※なぎ注:私が以前訪ねたお墓は宮道弥益のお墓ではなかったそうです。
またの機会にお参りしたいと思います。



宮道朝臣列子墓



●所在地:京都市山科区勧修寺西栗栖野

宮道列子(つらこ・れっし・たまこ)は宮道弥益(みやじのいやます)の娘。
藤原高藤(ふじわらのたかふじ)との間に 胤子(たねこ)・定国(さだくに)・定方(さだかた)・満子(みつこ)を産む。
醍醐天皇の外祖母。



藤原高藤墓



●所在地:京都市山科区勧修寺下ノ茶屋町

※鍋岡山山頂に墓碑が立っているものの墓碑に至る道がないのだとか。藤原定方墓から遥拝。

藤原高藤(ふじわらのたかふじ)は娘の胤子が産んだ皇子が醍醐天皇となったことで出世し内大臣にいたる。
小一条内大臣、勧修寺内大臣と呼ばれる。




藤原胤子陵



●所在地:京都市山科区勧修寺北大日

贈皇太后藤原胤子。
宇多天皇女御。醍醐天皇の生母。
光孝天皇の第七皇子として生まれた源定省(さだみ=のちの宇多天皇)と結婚。
源維城(これざね)<のちに親王宣下→敦仁親王→醍醐天皇>を産む。




藤原定方墓



●所在地:京都市山科区勧修寺下ノ茶屋町

藤原定方は藤原高藤と宮道列子との間に次男として生まれる。
歌人。管弦の名手。
邸宅が三条坊門小路の北面にあったため、三条右大臣と呼ばれる。
紫式部とその夫・藤原宣孝は定方の曾孫。







※宇多天皇陵は京都市右京区にあります。
※醍醐天皇陵は京都市伏見区にあります。




【参考】
「京都の歴史玄関 やましな盆地」発行:山科区老人クラブ連合会
「平安時代史事典CD-ROM版」   監修:角田文衞/編:古代学協会・古代学研究所/ 発行:(株)角川学芸出版
「今昔物語集 本朝部(中)」  編:池上洵一/発行:(株)岩波書店


【PICK UP】 宮道弥益(みやじのいやます)とは?

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※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2009年)
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藤原高藤と宮道列子のロマンス勧修寺宮道神社ゆかりの人々



 『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?
 藤原高藤と宮道列子のロマンスの地


宮道弥益 (みやじのいやます)

生没年不詳

平安時代前期の官人。
藤原高藤の妻となった宮道列子の父。
宇多天皇の女御・藤原胤子<贈皇太后>の外祖父。
醍醐天皇の外曾祖父。

宮道氏は、山城国宇治郡を本拠地とした豪族として知られるが、系統は未詳。

『今昔物語集』において宮道弥益は、山城国宇治郡の大領(たいりょう=長官)として登場し、娘の列子を藤原高藤と娶わせ、孫の胤子が醍醐天皇を産んだことにより、四位に叙され修理大夫(修理職の長官)になったという。

実際の弥益は、中下級官人であり藤原高藤との身分的格差を誇張するために『今昔物語集』では地方の郡司として描いたのではないかと推察される。


歴史上の記録では、以下のように出世する。

 877年(元慶元年) 漏刻博士 従五位下
 882年(元慶6年) 主計頭と越後介を兼任 従五位上
 887年(仁和3年) 主計頭と伊予権介を兼任

最終官歴は、宮内大輔(くないのたいふ)であったようである。


弥益の邸宅を寺としたのが、京都市山科区に現存する勧修寺


『今昔物語集』によると、弥益の妻は、勧修寺の東の山際に大宅寺(おおやけでら)を建立したというが、当時の大宅寺について詳細は不明。
宮道弥益と娘の列子、娘婿の藤原高藤と孫たちは、勧修寺の南にある宮道神社に合祀されている。









【参考】
「京都の歴史玄関 やましな盆地」発行:山科区老人クラブ連合会
「平安時代史事典CD-ROM版」   監修:角田文衞/編:古代学協会・古代学研究所/ 発行:(株)角川学芸出版
「今昔物語集 本朝部(中)」  編:池上洵一/発行:(株)岩波書店


【PICK UP】 宮道列子(みやじのつらこ・れっし・たまこ)とは?

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藤原高藤と宮道列子のロマンス勧修寺宮道神社ゆかりの人々



 『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?
 藤原高藤と宮道列子のロマンスの地



宮道列子 (みやじのつらこ・れっし・たまこ)

生年不明~907年(延喜7年)10月17日薨去

宮道弥益(みやじのいやます)の娘。
藤原高藤(ふじわらのたかふじ)との間に 胤子(たねこ)・定国(さだくに)・定方(さだかた)・満子(みつこ)を産む。

宮道弥益邸での藤原高藤と宮道列子の出会いについては『今昔物語集』巻二十二の七「高藤の内大臣の語」に詳しい。

娘の胤子が宇多天皇の女御となり醍醐天皇を産んだため、天皇の外祖母として従三位に叙された。

907年(延喜7年)10月17日薨去。10月26日に正二位が追贈された。


現在、勧修寺<宮道弥益邸宅跡>の南にある宮道神社に父の弥益や夫の藤原高藤、子どもたちと共に合祀されている。
また宮道列子の墓は中臣神社の東側にある円墳で供養塔が建つ。

身分が格上の藤原高藤と結ばれ、娘の胤子のおかげで天皇の外祖母として晴れがましい身の上になった列子(たまこ)。これにより、「たまのこし(玉の輿)」という言葉が生まれたのだとか!?(諸説あり。)

列子と高藤の子孫の一人に紫式部がいる。
紫式部が執筆した『源氏物語』に登場する「明石の君」のモデルは、宮道列子ではないかという説もあるらしい。






【参考】
「京都の歴史玄関 やましな盆地」発行:山科区老人クラブ連合会
「平安時代史事典CD-ROM版」   監修:角田文衞/編:古代学協会・古代学研究所/ 発行:(株)角川学芸出版
「今昔物語集 本朝部(中)」  編:池上洵一/発行:(株)岩波書店


【PICK UP】 藤原高藤(ふじわらのたかふじ)とは?

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藤原高藤と宮道列子のロマンス勧修寺宮道神社ゆかりの人々



 『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?
 藤原高藤と宮道列子のロマンスの地


藤原高藤 (ふじわらのたかふじ)

838年(承和5年)~900年(昌泰3年)

平安時代前期の公卿。
小一条内大臣、勧修寺内大臣と呼ばれる。

父は、藤原良門(藤原冬嗣の息子)
母は、高田春子(高田沙弥麻呂の娘)


『今昔物語集』巻第二十二の七 高藤の内大臣の語(たかふじのないだいじんのかたり)において、高藤が一夜の宿をかりた宮道弥益の邸宅<現在の勧修寺>で弥益の娘・列子と結ばれる逸話が描かれている。


正妻
 宮道列子との間に、胤子(たねこ)・定国(さだくに)・定方(さだかた)・満子(みつこ)が誕生。


 大江乙平女との間に、定文(さだふみ)が誕生。


 敬信(?)との間に、因香(よるか=歌人、女官)誕生(?)


≪藤原高藤 略年表≫

838年(承和5年) 誕生。
865年(貞観7年) 蔵人となる。以降、播磨権介・備中権介・近江権介、右兵衛権佐、尾張権守、左近少将、兵部大輔、伊勢権守・播磨権守などを歴任。
885年(元慶9年) 娘の胤子が、源定省(みなもとのさだみ)との間に、第一子 源維城(敦仁親王に改名→のちの醍醐天皇)を出産。
887年(仁和3年) 娘の胤子の夫・源定省が親王宣下を受け皇太子となり、皇位につく。⇒宇多天皇
889年(仁和4年) 娘の胤子が宇多天皇の更衣となる。胤子の子・維城が親王宣下。→敦仁親王
893年(寛平5年) 娘の胤子が宇多天皇の女御となる。敦仁親王が皇太子となる。・・・皇太子の外祖父に!
894年(寛平6年) 従三位に叙される。
895年(寛平7年) 参議となる。
896年(寛平8年) 娘の胤子 卒去。
897年(寛平9年) 醍醐天皇(敦仁親王) 即位。・・・天皇の外祖父に!
899年(昌泰2年) 大納言に昇進。
900年(昌泰3年) 内大臣に昇進。薨去。正一位太政大臣を追贈される。




娘の胤子が宇多天皇の女御となり、第一皇子の敦仁(あつぎみ)親王[源維城(これざね)]が皇太子となったことで、外祖父である高藤の出世速度が早まる。

左大臣・右大臣に次ぐ地位として、大納言から内大臣に昇進。
当時の左大臣は藤原時平、右大臣は菅原道真であった。

内大臣という官職を左右大臣に次ぐ「内の大臣」の意味で任ぜられたのは、藤原高藤の例が初である。(平安時代において初めての内大臣)

藤原高藤の子孫は勧修寺流と呼ばれる。









 “大納言”から“内大臣”へ昇進・・・『源氏物語』の光源氏の場合

■『源氏物語』第14帖<澪標(みおつくし)>に、以下のような文章があります。 

 源氏の大納言、内大臣になりたまひぬ。数定まりて、くつろぐ所もなかりければ、加はりたまふなりけり。

 (訳:源氏の大納言は、内大臣におなりになった。席がふさがって余裕がなかったので、員外の大臣としてお加わりになったのであった。)


【本文・訳 引用: 渋谷栄一氏のサイト『源氏物語の世界』


朱雀帝が退位して、東宮が新帝(冷泉帝)として即位し、新帝の後見役である光源氏は大納言から内大臣へ昇進しました。
左大臣・右大臣はすでにいて欠員がなかったため、光源氏は定員外の大臣の内大臣となったのでした。

この時点での左大臣は弘徽殿大后(朱雀院の母)の兄で朱雀院の麗景殿女御の父ではないかと考えられます。右大臣は朱雀院の承香殿女御の父(新 東宮の祖父)です。【系図参照】

※朱雀帝の麗景殿女御とその父(当時は藤大納言)は第10帖<賢木(さかき)>で登場しています。


平安時代の『源氏物語』読者の中には、光源氏の内大臣昇進に、平安時代で初めて内大臣となった藤原高藤を思い出す人もあったかもしれません。



*系図:『源氏物語』 冷泉帝即位時









【参考】
「京都の歴史玄関 やましな盆地」発行:山科区老人クラブ連合会
「平安時代史事典CD-ROM版」   監修:角田文衞/編:(財)古代学協会・古代学研究所/ 発行:角川学芸出版
「今昔物語集 本朝部(中)」  編:池上洵一/発行:岩波書店
「源氏物語の鑑賞と基礎知識 №10 賢木」 監修:鈴木一雄/編集:中野幸一/ 発行:至文堂
「源氏物語の鑑賞と基礎知識 №24 澪標」 監修:鈴木一雄/編集:日向一雅/ 発行:至文堂
「源氏物語必携事典」  編:秋山虔・室伏信助/発行:角川書店


【PICK UP】藤原胤子(ふじわらのたねこ・いんし)とは?

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藤原高藤と宮道列子のロマンス勧修寺宮道神社ゆかりの人々



 『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?
 藤原高藤と宮道列子のロマンスの地

藤原胤子 (ふじわらのたねこ・いんし)
876年(貞観18年)~896年(寛平8年)6月30日

贈皇太后藤原胤子。
宇多天皇女御。醍醐天皇の生母。

父は、藤原高藤
母は、宮道列子・・・宮道弥益の娘

同母兄弟に、定国(大納言兼右近衛大将)・定方(右大臣)・満子(尚侍)がいる。

光孝天皇の第七皇子として生まれた源定省(さだみ)と結婚。
長男・源維城(これざね)<のちに親王宣下→敦仁親王→醍醐天皇>を産む。

夫の源定省が皇族に復帰し宇多天皇となり、第一皇子・敦仁親王が皇太子となる。
しかし敦仁親王の即位を見ないまま若くして亡くなる。

宇多天皇との間に、敦仁親王<醍醐天皇>・敦慶親王・敦固親王・敦実親王・柔子内親王をもうけた。
(早世した胤子に代わって、宇多天皇女御藤原温子が養母となる。)


※醍醐天皇・敦慶親王・敦固親王は、父・宇多天皇より先に亡くなった。




『今昔物語集』高藤の内大臣の語において、藤原高藤が山科の宮道弥益の邸宅で一夜の宿をかりた時に宮道列子と結ばれ、胤子を授かったエピソードが記されている。

胤子の祖父・宮道弥益の邸宅を寺に改めたのが現在の勧修寺である。
祖父の宮道弥益と両親、兄弟たちとともに勧修寺の南にある宮道神社に祀られている。






≪胤子の子どもたち≫

 醍醐天皇 (だいごてんのう)
885年(元慶9年)~930年(延長8年)9月29日

宇多天皇の第一皇子。
源維城(これざね)→敦仁親王(あつぎみしんのう)





 敦慶親王 (あつよししんのう)

888年(仁和3年)~930年(延長8年)2月28日

宇多天皇の第四皇子。
中務卿、式部卿 などを歴任。二品に叙される。
管弦詩歌に秀でており、醍醐朝の文化興隆に貢献した。

『源氏物語』の光源氏のモデルの一人。





 敦固親王 (あつかたしんのう)

生年不明~926年(延長4年)12月28日?

宇多天皇の第五皇子。
902年(延喜2年)に元服。
兵部卿。二品に叙される。




 柔子内親王 (よしこないしんのう)

892年(寛平4年)?~959年(天徳3年)正月二日

宇多天皇の第二皇女。
六条斎宮と号する。

897年(寛平9年)、兄の敦仁親王の即位<醍醐天皇>によって、伊勢の斎宮に卜定される。
899年(昌泰2年)9月、伊勢に下る。

兄・醍醐天皇の崩御により、930年(延長8年)斎宮退下。
平安時代の斎宮としては最長の在任期間だった。





 敦実親王 (あつざねしんのう) 

893年(寛平5年)~967年(康保4年)3月2日

宇多天皇の第八皇子。
八条宮、仁和寺宮、六条式部卿宮と呼ばれる。
中務卿、式部卿 などを歴任。一品に叙される。

950年(天暦4年)、出家し仁和寺に住んだ。
法名 覚真。

藤原時平女との間に、源雅信(贈正一位左大臣)・源重信(正二位左大臣)・大僧正寛朝をもうける。

勧修寺大僧正と呼ばれた雅慶も敦実親王の子という。

宇多源氏の祖としては最も子孫が栄えた。

有職に詳しく、音楽の道にも秀でていた。
舞楽「胡蝶」や「延喜楽」の舞の振り付けをしたと伝わる。






【参考】

「平安時代史事典CD-ROM版」 監修:角田文衞/編:(財)古代学協会・古代学研究所/ 発行:角川学芸出版
「今昔物語集 本朝部(中)」編:池上洵一/発行:岩波書店



【PICK UP】三条右大臣 藤原定方(ふじわらのさだかた)とは?

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藤原高藤と宮道列子のロマンス勧修寺宮道神社ゆかりの人々



 『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?
 藤原高藤と宮道列子のロマンスの地


藤原定方 (ふじわらのさだかた)

873年(貞観15年)~932年(承平2年)

平安時代中期の官人。歌人。管弦の名手。
邸宅が三条坊門小路の北面にあったため、三条右大臣と呼ばれる。
歌集『三条右大臣集』を遺す。

父は、藤原高藤
母は、宮道列子。(宮道弥益の娘)


姉または妹である胤子(たねこ・いんし)は宇多天皇の女御で醍醐天皇の生母となる。

定方は子宝に恵まれ、5人の男子と13人の女子が確認されている。

娘のひとり・能子を醍醐天皇の後宮に入内させる。(能子は醍醐天皇崩御後、天皇の同母弟・敦慶親王と交際を経て、藤原実頼の妻となる。)

政治家としてよりも文化人としての功績を遺す。
宇多上皇や醍醐天皇主催の歌合で活躍し、醍醐朝の宮廷歌壇活動に寄与した。

従兄弟で娘婿でもある藤原兼輔、紀貫之や凡河内躬恒とも歌人同士として交流があった。


山科に勧修寺を建立したことから、子孫は「勧修寺流」と呼ばれる。
祖父の宮道弥益と両親、兄弟たちとともに勧修寺の南にある宮道神社に祀られている。



紫式部とその夫・藤原宣孝はともに藤原定方の曾孫にあたる。
また、紫式部が仕えた一条天皇中宮彰子は定方の玄孫である。







三条右大臣の名で歌人として知られる藤原定方。
『百人一首』には以下の歌が撰ばれています。


 名にしおはば 逢坂山の さねかづら
  人に知られで くるよしもがな

    三条右大臣


三条右大臣の歌碑は、宮道神社や逢坂関記念公園<滋賀県大津市>、嵯峨野に建立されています。




定方の子孫にも、『百人一首』に撰ばれた歌人が多いので系図にしてみました。
系図と歌をご覧くださいませ。





 定方の五男・藤原朝忠

 あふことの たえてしなくは なかなかに
  人をも身をも 恨みざらまし

    中納言朝忠



 定方の曾孫世代:紫式部・藤原公任・藤原実方

 めぐりあひて 見しやそれとも 分かぬまに
  雲がくれにし 夜半の月かな

    紫式部


 滝の音は 絶えて久しく なりぬれど
   名こそ流れて なほ聞こえけれ

    大納言公任


 かくとだに えやはいぶきの さしも草
  さしも知らじな もゆる思ひを

    藤原実方朝臣






 定方の玄孫世代 :藤原賢子(大弐三位)・藤原定頼・藤原道雅

 ありま山 ゐなの笹原 風吹けば
  いでそよ人を 忘れやはする

    大弐三位



 朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに
  あらはれわたる 瀬々の網代木

    権中納言定頼



 今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを
  人づてならで 言ふよしもがな

    左京大夫道雅




【参考】
「平安時代史事典CD-ROM版」 監修:角田文衞/編:(財)古代学協会・古代学研究所/ 発行:角川学芸出版
「今昔物語集 本朝部(中)」編:池上洵一/発行:岩波書店
「カラー 小倉百人一首」  編著:島津忠夫・櫟原聰/発行:京都書店


【PICK UP】「金印」出土の志賀島と志賀海神社<福岡市東区> その1

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現況と異なる部分も含まれていることと思います。ご了承くださいませ。



「金印」出土の志賀島と志賀海神社



(『ご当地ピンズ』シリーズ、“福岡ピンズ”のひとつ。「金印」)


2004年7月、福岡市東区にある志賀島(しかのしま)に行ってきました。
志賀島といえば、金印で有名ですよね♪
というわけで・・・金印公園へ。


金印公園



「漢委奴国王金印発光之処」の石碑。
志賀島の南側にある金印公園です。
天明4年(1784年)に金印が発見されました。


<福岡市による看板より>

金印公園

この地は後漢(現在の中国)の光武帝が奴国(現在の福岡市を中心とする地)の使者に授けたといわれる金印(国宝)が発見された場所としてわが国の歴史上、重要な地とされています。
印綬伝来から1900余年を経過したいま、この地に立って博多湾、玄界灘を望みながら遠く中国大陸と交流があった当時をしのべば、私たちの心に新たな感銘を呼びおこすでしょう。




公園には「金印」の拡大バージョンの碑があります。
志賀島の対岸に見えるのは博多湾に浮かぶ能古島(のこのしま)です。



『漢委奴国王(かんのわのなのこくおう』

金印の実物は 一辺2,3cm、重さ108,7g の金塊です。
福岡市博物館の常設展で見ることができます。とても綺麗ですよ~!
金印については、所蔵先の福岡市博物館のホームページが大変詳しいです。

『漢委奴国王』は「漢の倭(わ)の奴(な)の国王」とよむという説と「漢の委奴(いと)の国王」とよむという説がありますが、奴(な)も委奴(いと=伊都)も博多付近の小国でした。



 『後漢書』東夷伝 より (原漢文)

 建武中元二年、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。
 光武、賜ふに印綬を以ってす。

(↑ 私が高校時代に使った日本史の教科書より抜粋。)


建武中元二年は西暦57年(弥生時代)のこと。
この時、光武帝から賜った印綬が志賀島でみつかった金印といわれています。



*福岡市博物館で販売されている金印スタンプ。



≪スタンプに付いていた解説書より≫
つまみ<鈕(ちゅう)>は蛇がとぐろを巻いた姿で、ひもを通す孔(あな)<鈕孔(ちゅうこう)>には紫色のひも<綬(じゅ)>が結ばれていたものと考えられます。

金印は、大切な公文書や手紙の封印に使われました。封印の方法は、文書や手紙を入れた箱を紐で縛りその結び目に付けた粘土に押して封をしたもので、文書の秘密を守る鍵の役目を果たしています。





次回の記事では、志賀島にある志賀海神社をご紹介します。

 志賀海神社へ続きます。


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