平安時代好きブロガーの なぎ です。
2024年 5月のこと。
茶づなで開催中の「光る君へ 宇治 大河ドラマ展~都のたつみ藤原道長が築いたまち~」を見た後、
宇治市の北部、木幡に藤原道長が建立した浄妙寺(じょうみょうじ)の跡を訪ねました。
【「この附近 藤原道長建立浄妙寺跡」木碑と説明板・・・宇治市立木幡小学校の西門横にあります】
以下、説明板の文章
浄妙寺跡
木幡は、初の関白となった藤原基経が藤原氏の墓所と定めたとされます。浄妙寺は、寛弘2年(1005)藤原道長によって藤原氏の一族を弔うために建てられた寺です。道長は若いころ父 兼家に連れられ木幡を訪れた際、その荒廃に心を痛め、もし高位に上がったら一堂を建て三昧を修めようと思ったといわれます。
創建当初の浄妙寺の本堂は法華三昧堂で、2年後の寛弘4年(1007)に多宝塔が建てられます。そのほかに鐘楼、僧房、南門、西門などがありました。発掘調査では法華三昧堂、南限の築地塀跡、西門跡が発見されています。
浄妙寺は、平等院と並び藤原氏にとって重要な寺でしたが、鎌倉時代に入ると浄妙寺の別当(大きなお寺等を管理する役所の長官)が藤原氏から聖護院宮に移り、徐々に衰退していきます。寛正3年(1462)一揆の放火により焼失し、廃絶したものと考えられています。
令和3年9月
一般財団法人 宇治市文化財愛護協会
※なぎ注:漢数字を算用数字に書き換えました
浄妙寺は、藤原道長が藤原氏の菩提を弔うために宇治の木幡に建立した寺院。木幡寺とも。
寺地の選定は安倍晴明など、造仏は康尚、扁額と鐘銘の書は藤原行成、願文は大江匡房が担っています。
寛弘2年(1005)、浄妙寺の本堂である法華三昧堂が完成。
三昧堂供養当日は国家規模で行われました。参列した上達部は18人、参会した僧は100人以上。
寛弘4年(1007)には多宝塔供養が催されました。
浄妙寺を建立以降、道長は宇治別業(現在の平等院)へ行く途中必ず参詣したそうです。
万寿4年(1027)12月4日、道長は法成寺阿弥陀堂で亡くなります。62歳でした。
5日に入棺、7日夜に鳥戸野で荼毘に付されます。収骨された骨は壺に入れられ家司や僧によって木幡へ運ばれ埋葬されました。
当時の墓は、直径数メートルの塚に骨壺を収めたもので、周囲を柵で囲っていたとのこと。
現在、藤原道長の墓は特定されていませんが木幡小学校東側の丘陵部にあたるだろうといいます。
私が木幡を歩いた日は日差しが強く暑かったものの、木々の新緑が綺麗で空は晴れて心地よい日でした。
この近くで藤原道長は眠っていると思うと感慨深かったです。
【木幡小学校正門横にある「この附近 藤原道長建立浄妙寺跡」の木碑】
ちなみに、
宇治市木幡の茶畑から出土したと伝わる青磁水注 越州窯(せいじすいちゅう えっしゅうよう)[京都国立博物館蔵]は道長の骨壺であると指摘する考えもあるもよう…。(リンク先は京都国立博物館公式ホームページ内のページです)
高21.8cm 口径9.5cm 底径8.0cm、落ち着いた朽葉色?オリーブ色?です。
【参考】
>浄妙寺跡発掘調査説明会を開催しました(平成25年7月13日)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』講談社現代新書 2023年
倉本一宏『藤原道長の権力と欲望「御堂関白記」を読む』文春新書 2013年
大津透・池田尚隆 編『藤原道長事典 御堂関白記がからみる貴族社会』思文閣出版 2017年
角田文衞 監修/(財)古代学協会・古代学研究所 編『平安時代史事典CD-ROM版』角川学芸出版 2006年
「光る君へ 宇治 大河ドラマ展~都のたつみ藤原道長が築いたまち~」説明板 2024年
紫式部と藤原道長 (講談社現代新書) 倉本一宏 講談社
藤原道長事典―御堂関白記からみる貴族社会― 大津 透 思文閣出版