※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2009年)
ホームページサービス終了により当ブログへ移動しました。
藤原高藤と宮道列子のロマンス>勧修寺>宮道神社>ゆかりの人々
『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?
藤原高藤と宮道列子のロマンスの地
藤原胤子 (ふじわらのたねこ・いんし)
876年(貞観18年)~896年(寛平8年)6月30日
贈皇太后藤原胤子。
宇多天皇女御。醍醐天皇の生母。
父は、藤原高藤
母は、宮道列子・・・宮道弥益の娘
同母兄弟に、定国(大納言兼右近衛大将)・定方(右大臣)・満子(尚侍)がいる。
光孝天皇の第七皇子として生まれた源定省(さだみ)と結婚。
長男・源維城(これざね)<のちに親王宣下→敦仁親王→醍醐天皇>を産む。
夫の源定省が皇族に復帰し宇多天皇となり、第一皇子・敦仁親王が皇太子となる。
しかし敦仁親王の即位を見ないまま若くして亡くなる。
宇多天皇との間に、敦仁親王<醍醐天皇>・敦慶親王・敦固親王・敦実親王・柔子内親王をもうけた。
(早世した胤子に代わって、宇多天皇女御藤原温子が養母となる。)
※醍醐天皇・敦慶親王・敦固親王は、父・宇多天皇より先に亡くなった。
『今昔物語集』高藤の内大臣の語において、藤原高藤が山科の宮道弥益の邸宅で一夜の宿をかりた時に宮道列子と結ばれ、胤子を授かったエピソードが記されている。
胤子の祖父・宮道弥益の邸宅を寺に改めたのが現在の勧修寺である。
祖父の宮道弥益と両親、兄弟たちとともに勧修寺の南にある宮道神社に祀られている。
≪胤子の子どもたち≫
醍醐天皇 (だいごてんのう)
885年(元慶9年)~930年(延長8年)9月29日
宇多天皇の第一皇子。
源維城(これざね)→敦仁親王(あつぎみしんのう)
敦慶親王 (あつよししんのう)
888年(仁和3年)~930年(延長8年)2月28日
宇多天皇の第四皇子。
中務卿、式部卿 などを歴任。二品に叙される。
管弦詩歌に秀でており、醍醐朝の文化興隆に貢献した。
『源氏物語』の光源氏のモデルの一人。
敦固親王 (あつかたしんのう)
生年不明~926年(延長4年)12月28日?
宇多天皇の第五皇子。
902年(延喜2年)に元服。
兵部卿。二品に叙される。
柔子内親王 (よしこないしんのう)
892年(寛平4年)?~959年(天徳3年)正月二日
宇多天皇の第二皇女。
六条斎宮と号する。
897年(寛平9年)、兄の敦仁親王の即位<醍醐天皇>によって、伊勢の斎宮に卜定される。
899年(昌泰2年)9月、伊勢に下る。
兄・醍醐天皇の崩御により、930年(延長8年)斎宮退下。
平安時代の斎宮としては最長の在任期間だった。
敦実親王 (あつざねしんのう)
893年(寛平5年)~967年(康保4年)3月2日
宇多天皇の第八皇子。
八条宮、仁和寺宮、六条式部卿宮と呼ばれる。
中務卿、式部卿 などを歴任。一品に叙される。
950年(天暦4年)、出家し仁和寺に住んだ。
法名 覚真。
藤原時平女との間に、源雅信(贈正一位左大臣)・源重信(正二位左大臣)・大僧正寛朝をもうける。
勧修寺大僧正と呼ばれた雅慶も敦実親王の子という。
宇多源氏の祖としては最も子孫が栄えた。
有職に詳しく、音楽の道にも秀でていた。
舞楽「胡蝶」や「延喜楽」の舞の振り付けをしたと伝わる。
【参考】
「平安時代史事典CD-ROM版」 監修:角田文衞/編:(財)古代学協会・古代学研究所/ 発行:角川学芸出版
「今昔物語集 本朝部(中)」編:池上洵一/発行:岩波書店
ホームページサービス終了により当ブログへ移動しました。
藤原高藤と宮道列子のロマンス>勧修寺>宮道神社>ゆかりの人々
『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?
藤原高藤と宮道列子のロマンスの地
藤原胤子 (ふじわらのたねこ・いんし)
876年(貞観18年)~896年(寛平8年)6月30日
贈皇太后藤原胤子。
宇多天皇女御。醍醐天皇の生母。
父は、藤原高藤
母は、宮道列子・・・宮道弥益の娘
同母兄弟に、定国(大納言兼右近衛大将)・定方(右大臣)・満子(尚侍)がいる。
光孝天皇の第七皇子として生まれた源定省(さだみ)と結婚。
長男・源維城(これざね)<のちに親王宣下→敦仁親王→醍醐天皇>を産む。
夫の源定省が皇族に復帰し宇多天皇となり、第一皇子・敦仁親王が皇太子となる。
しかし敦仁親王の即位を見ないまま若くして亡くなる。
宇多天皇との間に、敦仁親王<醍醐天皇>・敦慶親王・敦固親王・敦実親王・柔子内親王をもうけた。
(早世した胤子に代わって、宇多天皇女御藤原温子が養母となる。)
※醍醐天皇・敦慶親王・敦固親王は、父・宇多天皇より先に亡くなった。
『今昔物語集』高藤の内大臣の語において、藤原高藤が山科の宮道弥益の邸宅で一夜の宿をかりた時に宮道列子と結ばれ、胤子を授かったエピソードが記されている。
胤子の祖父・宮道弥益の邸宅を寺に改めたのが現在の勧修寺である。
祖父の宮道弥益と両親、兄弟たちとともに勧修寺の南にある宮道神社に祀られている。
≪胤子の子どもたち≫
醍醐天皇 (だいごてんのう)
885年(元慶9年)~930年(延長8年)9月29日
宇多天皇の第一皇子。
源維城(これざね)→敦仁親王(あつぎみしんのう)
敦慶親王 (あつよししんのう)
888年(仁和3年)~930年(延長8年)2月28日
宇多天皇の第四皇子。
中務卿、式部卿 などを歴任。二品に叙される。
管弦詩歌に秀でており、醍醐朝の文化興隆に貢献した。
『源氏物語』の光源氏のモデルの一人。
敦固親王 (あつかたしんのう)
生年不明~926年(延長4年)12月28日?
宇多天皇の第五皇子。
902年(延喜2年)に元服。
兵部卿。二品に叙される。
柔子内親王 (よしこないしんのう)
892年(寛平4年)?~959年(天徳3年)正月二日
宇多天皇の第二皇女。
六条斎宮と号する。
897年(寛平9年)、兄の敦仁親王の即位<醍醐天皇>によって、伊勢の斎宮に卜定される。
899年(昌泰2年)9月、伊勢に下る。
兄・醍醐天皇の崩御により、930年(延長8年)斎宮退下。
平安時代の斎宮としては最長の在任期間だった。
敦実親王 (あつざねしんのう)
893年(寛平5年)~967年(康保4年)3月2日
宇多天皇の第八皇子。
八条宮、仁和寺宮、六条式部卿宮と呼ばれる。
中務卿、式部卿 などを歴任。一品に叙される。
950年(天暦4年)、出家し仁和寺に住んだ。
法名 覚真。
藤原時平女との間に、源雅信(贈正一位左大臣)・源重信(正二位左大臣)・大僧正寛朝をもうける。
勧修寺大僧正と呼ばれた雅慶も敦実親王の子という。
宇多源氏の祖としては最も子孫が栄えた。
有職に詳しく、音楽の道にも秀でていた。
舞楽「胡蝶」や「延喜楽」の舞の振り付けをしたと伝わる。
【参考】
「平安時代史事典CD-ROM版」 監修:角田文衞/編:(財)古代学協会・古代学研究所/ 発行:角川学芸出版
「今昔物語集 本朝部(中)」編:池上洵一/発行:岩波書店