※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2009年)
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藤原高藤と宮道列子のロマンス>勧修寺>宮道神社>ゆかりの人々
『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?
藤原高藤と宮道列子のロマンスの地
藤原高藤 (ふじわらのたかふじ)
838年(承和5年)~900年(昌泰3年)
平安時代前期の公卿。
小一条内大臣、勧修寺内大臣と呼ばれる。
父は、藤原良門(藤原冬嗣の息子)
母は、高田春子(高田沙弥麻呂の娘)
『今昔物語集』巻第二十二の七 高藤の内大臣の語(たかふじのないだいじんのかたり)において、高藤が一夜の宿をかりた宮道弥益の邸宅<現在の勧修寺>で弥益の娘・列子と結ばれる逸話が描かれている。
正妻
宮道列子との間に、胤子(たねこ)・定国(さだくに)・定方(さだかた)・満子(みつこ)が誕生。
妻
大江乙平女との間に、定文(さだふみ)が誕生。
妻
敬信(?)との間に、因香(よるか=歌人、女官)誕生(?)
≪藤原高藤 略年表≫
838年(承和5年) 誕生。
865年(貞観7年) 蔵人となる。以降、播磨権介・備中権介・近江権介、右兵衛権佐、尾張権守、左近少将、兵部大輔、伊勢権守・播磨権守などを歴任。
885年(元慶9年) 娘の胤子が、源定省(みなもとのさだみ)との間に、第一子 源維城(敦仁親王に改名→のちの醍醐天皇)を出産。
887年(仁和3年) 娘の胤子の夫・源定省が親王宣下を受け皇太子となり、皇位につく。⇒宇多天皇
889年(仁和4年) 娘の胤子が宇多天皇の更衣となる。胤子の子・維城が親王宣下。→敦仁親王
893年(寛平5年) 娘の胤子が宇多天皇の女御となる。敦仁親王が皇太子となる。・・・皇太子の外祖父に!
894年(寛平6年) 従三位に叙される。
895年(寛平7年) 参議となる。
896年(寛平8年) 娘の胤子 卒去。
897年(寛平9年) 醍醐天皇(敦仁親王) 即位。・・・天皇の外祖父に!
899年(昌泰2年) 大納言に昇進。
900年(昌泰3年) 内大臣に昇進。薨去。正一位太政大臣を追贈される。
娘の胤子が宇多天皇の女御となり、第一皇子の敦仁(あつぎみ)親王[源維城(これざね)]が皇太子となったことで、外祖父である高藤の出世速度が早まる。
左大臣・右大臣に次ぐ地位として、大納言から内大臣に昇進。
当時の左大臣は藤原時平、右大臣は菅原道真であった。
内大臣という官職を左右大臣に次ぐ「内の大臣」の意味で任ぜられたのは、藤原高藤の例が初である。(平安時代において初めての内大臣)
藤原高藤の子孫は勧修寺流と呼ばれる。
“大納言”から“内大臣”へ昇進・・・『源氏物語』の光源氏の場合
■『源氏物語』第14帖<澪標(みおつくし)>に、以下のような文章があります。
源氏の大納言、内大臣になりたまひぬ。数定まりて、くつろぐ所もなかりければ、加はりたまふなりけり。
(訳:源氏の大納言は、内大臣におなりになった。席がふさがって余裕がなかったので、員外の大臣としてお加わりになったのであった。)
【本文・訳 引用: 渋谷栄一氏のサイト『源氏物語の世界』】
朱雀帝が退位して、東宮が新帝(冷泉帝)として即位し、新帝の後見役である光源氏は大納言から内大臣へ昇進しました。
左大臣・右大臣はすでにいて欠員がなかったため、光源氏は定員外の大臣の内大臣となったのでした。
この時点での左大臣は弘徽殿大后(朱雀院の母)の兄で朱雀院の麗景殿女御の父ではないかと考えられます。右大臣は朱雀院の承香殿女御の父(新 東宮の祖父)です。【系図参照】
※朱雀帝の麗景殿女御とその父(当時は藤大納言)は第10帖<賢木(さかき)>で登場しています。
平安時代の『源氏物語』読者の中には、光源氏の内大臣昇進に、平安時代で初めて内大臣となった藤原高藤を思い出す人もあったかもしれません。
*系図:『源氏物語』 冷泉帝即位時
【参考】
「京都の歴史玄関 やましな盆地」発行:山科区老人クラブ連合会
「平安時代史事典CD-ROM版」 監修:角田文衞/編:(財)古代学協会・古代学研究所/ 発行:角川学芸出版
「今昔物語集 本朝部(中)」 編:池上洵一/発行:岩波書店
「源氏物語の鑑賞と基礎知識 №10 賢木」 監修:鈴木一雄/編集:中野幸一/ 発行:至文堂
「源氏物語の鑑賞と基礎知識 №24 澪標」 監修:鈴木一雄/編集:日向一雅/ 発行:至文堂
「源氏物語必携事典」 編:秋山虔・室伏信助/発行:角川書店
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藤原高藤と宮道列子のロマンス>勧修寺>宮道神社>ゆかりの人々
『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?
藤原高藤と宮道列子のロマンスの地
藤原高藤 (ふじわらのたかふじ)
838年(承和5年)~900年(昌泰3年)
平安時代前期の公卿。
小一条内大臣、勧修寺内大臣と呼ばれる。
父は、藤原良門(藤原冬嗣の息子)
母は、高田春子(高田沙弥麻呂の娘)
『今昔物語集』巻第二十二の七 高藤の内大臣の語(たかふじのないだいじんのかたり)において、高藤が一夜の宿をかりた宮道弥益の邸宅<現在の勧修寺>で弥益の娘・列子と結ばれる逸話が描かれている。
正妻
宮道列子との間に、胤子(たねこ)・定国(さだくに)・定方(さだかた)・満子(みつこ)が誕生。
妻
大江乙平女との間に、定文(さだふみ)が誕生。
妻
敬信(?)との間に、因香(よるか=歌人、女官)誕生(?)
≪藤原高藤 略年表≫
838年(承和5年) 誕生。
865年(貞観7年) 蔵人となる。以降、播磨権介・備中権介・近江権介、右兵衛権佐、尾張権守、左近少将、兵部大輔、伊勢権守・播磨権守などを歴任。
885年(元慶9年) 娘の胤子が、源定省(みなもとのさだみ)との間に、第一子 源維城(敦仁親王に改名→のちの醍醐天皇)を出産。
887年(仁和3年) 娘の胤子の夫・源定省が親王宣下を受け皇太子となり、皇位につく。⇒宇多天皇
889年(仁和4年) 娘の胤子が宇多天皇の更衣となる。胤子の子・維城が親王宣下。→敦仁親王
893年(寛平5年) 娘の胤子が宇多天皇の女御となる。敦仁親王が皇太子となる。・・・皇太子の外祖父に!
894年(寛平6年) 従三位に叙される。
895年(寛平7年) 参議となる。
896年(寛平8年) 娘の胤子 卒去。
897年(寛平9年) 醍醐天皇(敦仁親王) 即位。・・・天皇の外祖父に!
899年(昌泰2年) 大納言に昇進。
900年(昌泰3年) 内大臣に昇進。薨去。正一位太政大臣を追贈される。
娘の胤子が宇多天皇の女御となり、第一皇子の敦仁(あつぎみ)親王[源維城(これざね)]が皇太子となったことで、外祖父である高藤の出世速度が早まる。
左大臣・右大臣に次ぐ地位として、大納言から内大臣に昇進。
当時の左大臣は藤原時平、右大臣は菅原道真であった。
内大臣という官職を左右大臣に次ぐ「内の大臣」の意味で任ぜられたのは、藤原高藤の例が初である。(平安時代において初めての内大臣)
藤原高藤の子孫は勧修寺流と呼ばれる。
“大納言”から“内大臣”へ昇進・・・『源氏物語』の光源氏の場合
■『源氏物語』第14帖<澪標(みおつくし)>に、以下のような文章があります。
源氏の大納言、内大臣になりたまひぬ。数定まりて、くつろぐ所もなかりければ、加はりたまふなりけり。
(訳:源氏の大納言は、内大臣におなりになった。席がふさがって余裕がなかったので、員外の大臣としてお加わりになったのであった。)
【本文・訳 引用: 渋谷栄一氏のサイト『源氏物語の世界』】
朱雀帝が退位して、東宮が新帝(冷泉帝)として即位し、新帝の後見役である光源氏は大納言から内大臣へ昇進しました。
左大臣・右大臣はすでにいて欠員がなかったため、光源氏は定員外の大臣の内大臣となったのでした。
この時点での左大臣は弘徽殿大后(朱雀院の母)の兄で朱雀院の麗景殿女御の父ではないかと考えられます。右大臣は朱雀院の承香殿女御の父(新 東宮の祖父)です。【系図参照】
※朱雀帝の麗景殿女御とその父(当時は藤大納言)は第10帖<賢木(さかき)>で登場しています。
平安時代の『源氏物語』読者の中には、光源氏の内大臣昇進に、平安時代で初めて内大臣となった藤原高藤を思い出す人もあったかもしれません。
*系図:『源氏物語』 冷泉帝即位時
【参考】
「京都の歴史玄関 やましな盆地」発行:山科区老人クラブ連合会
「平安時代史事典CD-ROM版」 監修:角田文衞/編:(財)古代学協会・古代学研究所/ 発行:角川学芸出版
「今昔物語集 本朝部(中)」 編:池上洵一/発行:岩波書店
「源氏物語の鑑賞と基礎知識 №10 賢木」 監修:鈴木一雄/編集:中野幸一/ 発行:至文堂
「源氏物語の鑑賞と基礎知識 №24 澪標」 監修:鈴木一雄/編集:日向一雅/ 発行:至文堂
「源氏物語必携事典」 編:秋山虔・室伏信助/発行:角川書店