※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2009年)
ホームページサービス終了により当ブログへ移動しました。
藤原高藤と宮道列子のロマンス>勧修寺>宮道神社>ゆかりの人々
『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?
藤原高藤と宮道列子のロマンスの地
宮道列子 (みやじのつらこ・れっし・たまこ)
生年不明~907年(延喜7年)10月17日薨去
宮道弥益(みやじのいやます)の娘。
藤原高藤(ふじわらのたかふじ)との間に 胤子(たねこ)・定国(さだくに)・定方(さだかた)・満子(みつこ)を産む。
宮道弥益邸での藤原高藤と宮道列子の出会いについては『今昔物語集』巻二十二の七「高藤の内大臣の語」に詳しい。
娘の胤子が宇多天皇の女御となり醍醐天皇を産んだため、天皇の外祖母として従三位に叙された。
907年(延喜7年)10月17日薨去。10月26日に正二位が追贈された。
現在、勧修寺<宮道弥益邸宅跡>の南にある宮道神社に父の弥益や夫の藤原高藤、子どもたちと共に合祀されている。
また宮道列子の墓は中臣神社の東側にある円墳で供養塔が建つ。
身分が格上の藤原高藤と結ばれ、娘の胤子のおかげで天皇の外祖母として晴れがましい身の上になった列子(たまこ)。これにより、「たまのこし(玉の輿)」という言葉が生まれたのだとか!?(諸説あり。)
列子と高藤の子孫の一人に紫式部がいる。
紫式部が執筆した『源氏物語』に登場する「明石の君」のモデルは、宮道列子ではないかという説もあるらしい。
【参考】
「京都の歴史玄関 やましな盆地」発行:山科区老人クラブ連合会
「平安時代史事典CD-ROM版」 監修:角田文衞/編:古代学協会・古代学研究所/ 発行:(株)角川学芸出版
「今昔物語集 本朝部(中)」 編:池上洵一/発行:(株)岩波書店
ホームページサービス終了により当ブログへ移動しました。
藤原高藤と宮道列子のロマンス>勧修寺>宮道神社>ゆかりの人々
『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?
藤原高藤と宮道列子のロマンスの地
宮道列子 (みやじのつらこ・れっし・たまこ)
生年不明~907年(延喜7年)10月17日薨去
宮道弥益(みやじのいやます)の娘。
藤原高藤(ふじわらのたかふじ)との間に 胤子(たねこ)・定国(さだくに)・定方(さだかた)・満子(みつこ)を産む。
宮道弥益邸での藤原高藤と宮道列子の出会いについては『今昔物語集』巻二十二の七「高藤の内大臣の語」に詳しい。
娘の胤子が宇多天皇の女御となり醍醐天皇を産んだため、天皇の外祖母として従三位に叙された。
907年(延喜7年)10月17日薨去。10月26日に正二位が追贈された。
現在、勧修寺<宮道弥益邸宅跡>の南にある宮道神社に父の弥益や夫の藤原高藤、子どもたちと共に合祀されている。
また宮道列子の墓は中臣神社の東側にある円墳で供養塔が建つ。
身分が格上の藤原高藤と結ばれ、娘の胤子のおかげで天皇の外祖母として晴れがましい身の上になった列子(たまこ)。これにより、「たまのこし(玉の輿)」という言葉が生まれたのだとか!?(諸説あり。)
列子と高藤の子孫の一人に紫式部がいる。
紫式部が執筆した『源氏物語』に登場する「明石の君」のモデルは、宮道列子ではないかという説もあるらしい。
【参考】
「京都の歴史玄関 やましな盆地」発行:山科区老人クラブ連合会
「平安時代史事典CD-ROM版」 監修:角田文衞/編:古代学協会・古代学研究所/ 発行:(株)角川学芸出版
「今昔物語集 本朝部(中)」 編:池上洵一/発行:(株)岩波書店