※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2009年)
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藤原高藤と宮道列子のロマンス>勧修寺>宮道神社>ゆかりの人々
『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?
藤原高藤と宮道列子のロマンスの地
宮道弥益 (みやじのいやます)
生没年不詳
平安時代前期の官人。
藤原高藤の妻となった宮道列子の父。
宇多天皇の女御・藤原胤子<贈皇太后>の外祖父。
醍醐天皇の外曾祖父。
宮道氏は、山城国宇治郡を本拠地とした豪族として知られるが、系統は未詳。
『今昔物語集』において宮道弥益は、山城国宇治郡の大領(たいりょう=長官)として登場し、娘の列子を藤原高藤と娶わせ、孫の胤子が醍醐天皇を産んだことにより、四位に叙され修理大夫(修理職の長官)になったという。
実際の弥益は、中下級官人であり藤原高藤との身分的格差を誇張するために『今昔物語集』では地方の郡司として描いたのではないかと推察される。
歴史上の記録では、以下のように出世する。
877年(元慶元年) 漏刻博士 従五位下
882年(元慶6年) 主計頭と越後介を兼任 従五位上
887年(仁和3年) 主計頭と伊予権介を兼任
最終官歴は、宮内大輔(くないのたいふ)であったようである。
弥益の邸宅を寺としたのが、京都市山科区に現存する勧修寺。
『今昔物語集』によると、弥益の妻は、勧修寺の東の山際に大宅寺(おおやけでら)を建立したというが、当時の大宅寺について詳細は不明。
宮道弥益と娘の列子、娘婿の藤原高藤と孫たちは、勧修寺の南にある宮道神社に合祀されている。
【参考】
「京都の歴史玄関 やましな盆地」発行:山科区老人クラブ連合会
「平安時代史事典CD-ROM版」 監修:角田文衞/編:古代学協会・古代学研究所/ 発行:(株)角川学芸出版
「今昔物語集 本朝部(中)」 編:池上洵一/発行:(株)岩波書店
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藤原高藤と宮道列子のロマンス>勧修寺>宮道神社>ゆかりの人々
『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?
藤原高藤と宮道列子のロマンスの地
宮道弥益 (みやじのいやます)
生没年不詳
平安時代前期の官人。
藤原高藤の妻となった宮道列子の父。
宇多天皇の女御・藤原胤子<贈皇太后>の外祖父。
醍醐天皇の外曾祖父。
宮道氏は、山城国宇治郡を本拠地とした豪族として知られるが、系統は未詳。
『今昔物語集』において宮道弥益は、山城国宇治郡の大領(たいりょう=長官)として登場し、娘の列子を藤原高藤と娶わせ、孫の胤子が醍醐天皇を産んだことにより、四位に叙され修理大夫(修理職の長官)になったという。
実際の弥益は、中下級官人であり藤原高藤との身分的格差を誇張するために『今昔物語集』では地方の郡司として描いたのではないかと推察される。
歴史上の記録では、以下のように出世する。
877年(元慶元年) 漏刻博士 従五位下
882年(元慶6年) 主計頭と越後介を兼任 従五位上
887年(仁和3年) 主計頭と伊予権介を兼任
最終官歴は、宮内大輔(くないのたいふ)であったようである。
弥益の邸宅を寺としたのが、京都市山科区に現存する勧修寺。
『今昔物語集』によると、弥益の妻は、勧修寺の東の山際に大宅寺(おおやけでら)を建立したというが、当時の大宅寺について詳細は不明。
宮道弥益と娘の列子、娘婿の藤原高藤と孫たちは、勧修寺の南にある宮道神社に合祀されている。
【参考】
「京都の歴史玄関 やましな盆地」発行:山科区老人クラブ連合会
「平安時代史事典CD-ROM版」 監修:角田文衞/編:古代学協会・古代学研究所/ 発行:(株)角川学芸出版
「今昔物語集 本朝部(中)」 編:池上洵一/発行:(株)岩波書店