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【平安あれこれ】源氏物語と紫式部と塩竈

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平安時代好きブロガー なぎ です。

 

『源氏物語』や紫式部と縁のある土地で最北端なのは

宮城県塩竈市ではないでしょうか。

 

『源氏物語』少女巻において光源氏は35歳の年の8月、

秋好中宮が母・六条御息所から伝領した邸宅を含む敷地に

「六条院」を造営しました。

 

 

『源氏物語』で登場するこの「六条院」は平安時代前期に実在した

嵯峨天皇の皇子・源融(みなもとのとおる)[河原左大臣]

邸宅「河原院(かわらのいん)」がモデルだといわれています

「河原院」の園池は陸奥国の塩竃(しおがま)の浦を

模して造られたのだとか。

のちには難波江の海水を「河原院」の池に運ばせては

塩を焼く煙(製塩)の風情を楽しんだという伝説まで生まれました。

 

 

また、紫式部の家集『紫式部集』では

紫式部が夫・藤原宣孝が亡くなった哀しみについて

以下のように詞書と和歌を遺しています。

 

   世のはかなき事をなげくころ、みちのくに名ある

   ところどころかいたる絵を見て、しほがま

 

 見し人のけぶりになりし夕べより

  なぞむつましきしほがまの浦

 

[訳:夫を失い世のはかなき事を嘆くころ、陸奥に名のある

 所々を描いた絵を見て、塩釜、

夫であった人が煙となった夕べから

名こそ睦ましく感じられる塩釜の浦です。]

 

※『紫式部集』の本文・現代語訳は『新訂版 紫式部と和歌の世界 一冊で読む紫式部家集 訳注付』(編:上原作和、廣田収)より引用しました。

☆Amazon:新訂版 紫式部と和歌の世界―一冊で読む紫式部家集 訳注付

 

 

このように

『源氏物語』や紫式部とゆかりある歌枕・塩竈…

検索してみたところ、現在、宮城県塩竈市には

『源氏物語』少女巻(光源氏の六条院造営部分)の碑があるそうです。

参考:文化の港 シオーモ文学館『源氏物語』少女

 

かつて発行されたという小冊子「光源氏の愛した地・塩釜へ」は

こちらのページからダウンロードできます。

参考:大槻総合研究所>>「光源氏の愛した地・塩釜へ」平安ロマンの体験型学習ツアー構築プロジェクト

 

塩竃の浦の美しい景色を見てみたいものです!

 

 

*ブログ「晴れのち平安」過去記事より。

よろしければこちらもご覧ください。

【PICK UP】『源氏物語光源氏の邸宅「六条院」を歩く

 六条院 春の町

 六条院 夏の町

 六条院 秋の町

 六条院 冬の町

 

☆Amazon:新訂版 紫式部と和歌の世界―一冊で読む紫式部家集 訳注付

 


【平安あれこれ】東三条殿跡に建つ「京都かまんざホテル」に宿泊 その1

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平安時代好きブロガーの なぎ です。

 

2022年 5月のこと。

平安時代に存在した「東三条殿」の跡に建つ宿泊施設のひとつ、

『京都かまんざホテル』に宿泊しました。

 

(京都の地図をガン見して「東三条殿」跡に建つ宿泊施設を調べ、

そのうちのひとつが『京都かまんざホテル』だったのでした。

ホテル側としては「東三条殿」跡を売りにしているわけではありませんw)

 

さて、「東三条殿」は平安京 左京の三条(二条大路南側)に

南北2町を占めており、藤原氏に代々伝えられた邸宅でした。

藤原兼家の娘で一条天皇の生母でもある藤原詮子は

この邸宅にちなみ「東三条院」の院号を得ています。

また藤原道長は「東三条殿」の大規模な建て替え工事を

させたこともあったのだとか。

 ☆Amazon.co.jp : 藤原道長

 

(東三条殿復原模型 2018年京都文化博物館にて撮影)

 

そんな「東三条殿」跡は、

現在の京都市中京区押小路通釜座[かまんざ]を

中心とする地域にあたります。

 

 

(押小路通釜座には石碑や説明板があります)

 

今回、「東三条殿」跡に泊まりたい!というわけで

宿泊を決めたのでした。

 

 

京都かまんざホテル

 京都市中京区釜座通二条下る上松屋町702

 公式ホームページ

 ⇒ https://kyotokamanzahotel.jp/

 

 

外観

3階建てで客室は全10室のこじんまりとしたホテルです。

 

以下はロビーの様子。

 

 

館内のあちこちに漆の調度品や漆を塗った家具が…✨

漆塗りなのでいろいろなものが反射して

綺麗に写真が撮れなかったのですがうっとり。

実際に見て欲しい!

 

公式ホームページによると

”当ホテルは漆塗りの家具を専門とするメーカーが運営しており、

銘木に漆を誂えた稀少な家具が豪華かつ暖かみのある空間を演出しております。”

とのこと。

だから漆を使った家具が館内のあちこちで見られるのですね~!

 

平安時代の邸宅「東三条殿」内には

漆塗りの調度品がたくさんあったでしょうから

現在、漆塗りの家具を使った京都かまんざホテルに

宿泊できるのは嬉しいですね。

この地は平安時代だったら踏み入れることもできなかったはずw

 

貴重な漆塗りの棚に電子レンジが置かれている…!

 

 

京都かまんざホテル その2へ続きます

 

 

 

【平安あれこれ】東三条殿跡に建つ「京都かまんざホテル」に宿泊 その2

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平安時代好きブロガーの なぎ です。

【平安あれこれ】東三条殿跡に建つ「京都かまんざホテル」に宿泊 その1 の続き。

 

京都かまんざホテル 1階「漆ギャラリー」の様子です。

 

吸い物椀「光琳波蒔絵」

 

屏風「夏草秋草蒔絵」

 

呂色塗エレベータ「光琳波に千鳥蒔絵」

 

どれも美しい…✨

 

今回、宿泊したのはデラックスダブルのお部屋。

(ひとりで泊まって広いベッドをごろごろしましたw)

 

 

 

室内は温かみのあるデザイン。

漆を塗ったカウンターや家具。

寝心地のよいベッド。

着心地のよい部屋着(作務衣)。

広々としたバストイレ。

 

快適に過ごすことができました。

 

こちらの京都かまんざホテルでは、蒔絵体験もできるのだとか。

気になりますー!

 

Amazon.co.jp : 藤原道長

 

 

【平安あれこれ】藤原道長が建立した「法成寺」の礎石!?

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平安時代好きブロガーの なぎ です。

 

2022年 5月のこと。

京都市上京区にある清浄華院様をお訪ねして

「法成寺」推定地(京都市上京区東桜町25-3)から出土した

礎石や石造物、金剛界大日如来の石仏を拝見しました。

 

※法成寺=藤原道長が自邸の土御門第に隣接して建てた寺。

     道長は法成寺の阿弥陀堂内で亡くなりました。

 

大本山 清浄華院 (天台圓淨宗 盧山寺の北側にあります)

 

左側:礎石

中央:石造物

右側:金剛界大日如来坐像(石仏)

 

 

まず、礎石の大きさに驚きました!Σ(゚Д゚)

これほど大きいとは想像だにしていませんでした。

巨大建築物の礎石だと思われます。いろいろな角度から撮影。

[長部:約120センチ、柱座径:約90センチ]

 

 

金剛界大日如来坐像(石仏)

[全長:120センチほど]

 

有孔石造物(表面に凹状の加工痕あり。火焔に焼かれ剥落が多い。)

 

↓それぞれクリックで拡大します↓

 

 

清浄華院 様を訪ねた後、

京都府立鴨沂高等学校のグラウンド(コート?)へ。

こちらには平成20年に設置された

「源氏物語ゆかりの地説明板 法成寺跡」があります。

 

↓クリックで拡大↓

 

 

法成寺は、最初は無量寿院(むりょうじゅいん)と呼ばれていましたが

治安二年(1022年)に金堂と五大堂が完成し、法成寺と改名されたのだとか。

今年2022年は法成寺改名からちょうど千年になります

 

 

藤原道長事典―御堂関白記からみる貴族社会―   大津 透 思文閣出版

 

 

 

【平安あれこれ】平安宮内裏跡に建つ「綾綺殿」にてランチ

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平安時代好きブロガー なぎ です。

2022年 5月のこと。

 

平安宮内裏綾綺殿(りょうきでん)跡に建つ

「ショップ&カフェ 綾綺殿」にてランチしました。

 

ショップ&カフェ 綾綺殿 外観

 

「平安宮内裏綾綺殿跡」碑と解説

 

↓解説より

平安宮内裏綾綺殿跡

 綾綺殿は、天皇の住まいである内裏の中心建物で

ある仁壽殿の東にあった南北に長い建物で、東側は

壺庭を挟んで温明殿、南には宜陽殿があった。

 いわゆる内裏十七殿の一つで、宮中の舞などが行

われ、「年中行事絵巻」にも女楽人や六名の妓女が

艶やかに舞う姿が活写されている。

 身舎は東西二面で、南北九間のうち南五間を納殿と

して使用し、宮中恒例の行事に使用する御物などが

納められていた。

 

 

今回、ショップ&カフェ 綾綺殿のランチでいただいたのは

「丹波あじわい鶏モモ肉のから揚げ定食」

ボリューミー…に見えますでしょ?

カリっとした衣の中からあふれ出る肉汁がたまりません。

鶏もも肉のおいしさはもちろんのこと、

油の専門店 山中油店さんの良い油を使っていらっしゃるので

ペロッと食べられるのです。

から揚げはタルタルソースをつけていただきました。

お味噌汁やおかずも美味。

とっても幸せなランチタイムでした。

 

 

内裏跡に建つカフェでランチやお茶が楽しめる、ということで

京都へ行くと度々利用している大好きなお店です。

 

 

ショップ&カフェ 綾綺殿

 京都市上京区浄福寺通下立売上ル520-5

 https://www.yoil.co.jp/ryokiden/#item1

 

株式会社 山中油店

 京都市上京区下立売通智恵光院西入508

 https://www.yoil.co.jp/

 

 

 

ビジュアルワイド 平安大事典

図解でわかる「源氏物語」の世界

  倉田 実 朝日新聞出版

 

 

【平安あれこれ】15枚の重袿(風俗博物館で展示・2022年)

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平安時代好きブロガー なぎ です。

 

『栄花物語』巻二十四「わかばえ」にある

藤原道長の娘、姸子が開いた正月大饗の場面において

袿を15~20枚重ねた女房について書かれているそうです。

その様子は、まるで冊子のようであったのだとか。

 

さて、2022年 5月のこと。

京都市下京区にある風俗博物館を訪ねました。

今回、風俗博物館の実物大展示では

15枚の重袿を再現されたものが展示されていました。Σ(゚Д゚)

 

袿を6枚以上…たくさん重ねるなんてどんなだろう?と

長らく思っていたので展示を見ることができて嬉しかったです

(後世、袿は5枚着るものだと定まるので

 6枚以上たくさん重ねた状態のイメージがわかなかったので💦)

一色を5枚ずつ。この再現の場合、3色×5枚=15枚

※袿は袷仕立て

 

美しく重なる様子はなるほど冊子のようです!!

 

スタッフの方にお尋ねしたところ

重くてふたりがかりで着せたのだそうです。

 

後ろから見た姿

実際に着たら身動きするのが大変そう

15枚でこのボリュームなので

20枚の袿を重ねたらさらに圧巻でしょうね!

 

 

20枚の重袿について博物館での解説

↓クリックすると拡大します

 

【参考】

 日本服飾史衣裳の知識(コラム)五衣と単

 

 風俗博物館

  京都市下京区堀川通新花屋町下る(井筒左女牛ビル5階)

  https://www.iz2.or.jp/

 

 

日本服飾史 女性編 (趣)   井筒 雅風 光村推古書院

 

 

【京都】鶴屋吉信 IRODORI にてほっこり

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平安時代好きブロガー なぎ です。

今日は平安時代の話題をひとやすみ。

 

2022年 5月下旬のこと。

京都へ行ったら上生菓子を食べたい…!と思っていたわたくし。

 

京都駅八条口にある 鶴屋吉信 IRODORI にて

「あじさいきんとん」とグリーンティーをいただきました。

暑い日でたくさん歩いた後だったので

グリーンティーの冷たさときんとんのほどよい甘さに体と心がほっこり。

 

「あじさいきんとん」

 ”朝露がきらめく紫陽花の風情”

 

綺麗でうっとり。

おいしゅうございました!

 

IRODORI

 https://www.tsuruyayoshinobu.jp/shop/irodori

 京都市下京区東塩小路町8-3(京都駅八条口)

 

 

【平安あれこれ】廬山寺(紫式部邸宅址)

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平安時代好きブロガー なぎ です。

2022年 5月のこと。

 

紫式部邸宅址に建つ廬山寺をお参りしました。

玄関では金色に輝く紫式部像がおわします。

 

↓紫式部像について解説。クリックで拡大します。

 

玄関前には、

源氏物語ゆかりの地 説明板 廬山寺

がありますのでご一読を。

↓クリックで拡大

説明板に記されているように、廬山寺が建つ地は

紫式部の ”曽祖父の堤中納言こと藤原兼輔の屋敷があった地で、

式部の父の藤原為時に譲ったことから、ここで『源氏物語』や

『紫式部日記』が執筆されたという説があり ”ます。

 

  ☆藤原兼輔については当ブログ内のこちらの記事もどうぞ。

   【平安あれこれ】紫式部の曽祖父・藤原兼輔のこと

 

廬山寺の源氏庭には「紫式部邸宅址」の顕彰碑があり、

白砂と苔が美しい庭です。

いつまでも眺めていたくなるような落ち着く気持ちに…。

紫式部の紫にちなみ、

紫色の花を咲かせる桔梗が6月から9月あたりまで咲くのも素敵ですよ!

(私が訪ねた5月下旬は、桔梗の開花はまだ先の状態でした。)

源氏庭にある「紫式部邸宅址」碑

何度も何度も訪ねているお寺ですが

四季折々、お庭を楽しみたいです。

 

 

玄関前には大弐三位と紫式部の歌碑があります。

 

 大貮三位

  有馬山ゐなのささはら風ふけば

  いでそよ人を忘れやはする

 

 紫式部

  めぐりあひて見しやそれともわかぬまに

  雲かくれにし夜半の月影

 

↓ 紫式部 大貮三位 歌碑 クリックで拡大します

 

大弐三位(藤原賢子)は紫式部と夫・藤原宣孝との娘。

親仁親王[のちの後冷泉天皇]の乳母となり

従三位 典侍に。

夫は大宰大弐 高階成章。

そのため大弐三位と呼ばれました。

 

 

 廬山寺

  http://www7a.biglobe.ne.jp/~rozanji/

  京都市上京区寺町通り広小路上る北之辺町397

 

余談ですが、廬山寺(ろざんじ)の 廬 は間違えやすい漢字です。

廬 が正式で 盧・蘆 ではありません。

(私もよく 盧山寺 と打ち間違えてしまいます💦)

 

紫式部と平安の都 (人をあるく)   倉本 一宏 吉川弘文館

 

 


【平安あれこれ】この世をば…藤原道長の邸宅「土御門第」跡

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平安時代好きブロガー なぎ です。

2022年 5月のこと。

 

京都市上京区、廬山寺の南西にある

清和院御門から京都御苑に入りました。

 

清和院御門を入ったあたり(京都迎賓館の南)から

仙洞御所の北池を含む北半分あたりまでが

藤原道長が所有した邸宅のひとつである

「土御門第(つちみかどてい)」跡に相応するのだとか。

 

 

土御門第は

土御門大路(上東門大路)の南、

近衛大路の北、

東京極大路の西

に位置していました。

 

道長の三女・威子が後一条天皇の中宮となった時に

この邸宅で行われた祝宴において

「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることも無しと思へば」

という和歌を詠んでいます。

 

少し場所がわかりにくいですが、

現在、京都迎賓館南側の道沿いに

「土御門第跡」を示す駒札が設置されています。

 

駒札は設置後、過去に1~2度(?)新しくなったと思うのですが

風雨に晒されてまた文字が見えづらくなりました💦

↓ 駒札より

 

  土御門第跡

平安時代中期に摂政・太政大臣となった藤原道長の邸宅跡で、

拡充され南北二町に及び、上東門第、京極第などとも

呼ばれました。道長の長女彰子が一条天皇のお后となり、

里内裏である当邸で、後の後一条天皇や後朱雀天皇になる

皇子達も、誕生しました。「この世をば わが世とぞ思ふ

望月の 欠けたることも なしと思へば」の歌は、この邸で

催された宴席で詠まれたといいます。

 

 

土御門第は

元々は、右大臣源重信の邸宅であったのを

重信の姪である源倫子が伝領し、

倫子の夫である道長の所有となったのだそうです。

※源重信ではなく、重信の兄で倫子の父である雅信の邸宅だったという説も。

 

 

道長と倫子の長女・彰子が土御門第で

敦成親王(のちの後一条天皇)や

敦良親王(のちの後朱雀天皇)を出産した時のことは

『紫式部日記』に記されています。

 

 

ちなみに

藤原道長が晩年に東京極大路の東に建立した

「法成寺(ほうじょうじ)」は「土御門第」の隣りでした。

 

 

 

【参考】

紫式部顕彰会 編纂『京都源氏物語地図』思文閣出版 2007年

大津通・池田尚隆 編『藤原道長事典』思文閣出版 2017年

倉本一宏 著『紫式部と京都』 吉川弘文館 2014年

 

 

藤原道長事典―御堂関白記からみる貴族社会―   大津 透 思文閣出版

 

紫式部と平安の都 (人をあるく)   倉本 一宏 吉川弘文館

 

 

  

【平安あれこれ】紫式部の墓

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平安時代好きブロガー なぎ です。

2022年 5月のこと。

 

京都市北区、北大路堀川の南にある紫式部と小野篁のお墓参りへ行きました。

 

堀川通に面して墓所の入り口があります。

整備され以前より雰囲気が明るくなりましたね✨

 

墓所 入り口

 

参道を進むと

高さ1メートルほどの土盛りがふたつ並び、それぞれ五輪塔があります。

西側が紫式部のお墓、東側が小野篁のお墓です。

 

紫式部墓

 

室町時代に四辻善成(よつつじのよしなり)によって著された『源氏物語』の注釈書『河海抄(かかいしょう)』に

「式部墓所在 雲林院白毫院南 小野篁墓の西なり 」

という記載があるのだそうです。

 

室町時代には、紫式部と小野篁のお墓の場所について雲林院の塔頭 白毫院の南にあると伝わっていたのですね!

 

ちなみに

雲林院(うんりんいん・うりんいん)は、元は平安時代の淳和天皇の離宮「紫野院」と称し、のちに「雲林院」に改められ、かつては広大な境内を誇る天台宗の寺院でした。

「雲林院」は『源氏物語』にも登場しますがそれはまた別の機会に…。

今は廃寺となり往時のおもかげはありません。

(現在ある雲林院は、臨済宗の大徳寺の塔頭で名を継承再興したもの。)

 

小野相公墓(小野篁の墓)

小野篁は、野相公(やしょうこう) とも呼ばれた人物で平安時代前期の公卿。漢詩人。歌人。

 

紫式部が亡くなってから後に

『源氏物語』という壮大なフィクション(嘘・作り話)を書いた咎により紫式部は地獄に堕ちて苦しんだだろう、と考える人々が出てきました。

 

そこで、この世と冥界を行き来した小野篁が閻魔大王にとりなして、紫式部が救われたという伝説が生まれたようです。

そのため、紫式部と小野篁のお墓は並んでいるのだとか。

 

『人物叢書 紫式部』によると

 ”この塚について、民俗学者は院政期ごろから紫野には小野篁を祖先とする語部(かたりべ)の集団が住み、「紫式部」の名の関連から、式部と篁との塚を並べたものだろうといっている。おそらく真相はそれに近いだろう。”

とあります。

 

実際に紫式部と小野篁が眠っているのか真偽はともあれ、現在までたくさんの方々がお参りして親しまれた様子がうかがえますね。合掌。

 

 

 

【参考】

一般社団法人 紫式部顕彰会 ホームページ

倉本一宏 著『紫式部と京都』 吉川弘文館 2014年

桜風舎 /らくたび 編・制作『源氏物語散策帖~ゆかりの地をめぐる~』 コトコト 2008年

文:坂井輝久/写真:井上匠『京都 紫式部のまち その生涯と『源氏物語』』 淡交社  2008年

今井源衛 著『人物叢書 紫式部』  吉川弘文館 1985年(新装版)

 

 

紫式部と平安の都 (人をあるく)   倉本 一宏 吉川弘文館

 

源氏物語散策帖―ゆかりの地をめぐる (らくたび文庫)   「らくたび文庫」編集部 コトコト

 

京都 紫式部のまち―その生涯と『源氏物語』   坂井 輝久 淡交社

 

紫式部 (人物叢書 新装版)   今井 源衛 吉川弘文館

 

 

 

【京都】「女子宮廷装束の華」展 ① 十二単の変遷

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平安時代好きブロガー なぎ です。

 

2022年 5月、

京都産業大学 むすびわざ館2階 ギャラリー (京都市下京区中堂寺命婦町1-10)での企画展「女子宮廷装束の華」を見学した時のこと。

いただいたレジュメをもとに印象的だったものと自分で少し調べたことを加えて個人的な覚え書きとして記事に残しておきたいと思います。

 

 ①十二単の変遷  今ココ

 ②十二単[唐衣裳]の構成 

 ③平安十二単

 ④『源氏物語絵巻』で見られる直衣や唐衣

 

 

十二単の変遷

 

奈良時代

 ー大宝律令の完成、唐の文化を取り入れ日本の服制の大綱(たいこう)が確立ー

  養老の衣服令(いふくりょう)による女官礼服(らいふく)

大宝元年(701)成立の大宝律令を継承した養老2年(718)の衣服令によって定められて女官の礼服(らいふく)です。

男性の文官礼服と同様、毎年正月元日に行われた朝賀や即位式など限られて儀式でのみ着用。

礼服に対して、ふだん朝廷に出仕する際に着用する装束は朝服(ちょうふく)と呼ばれたそうです。

奈良時代から平安時代初期にかけては、最も中国風であった時代でした。

裙(も)は巻きスカートのようになっており、裙の下には褶(ひらみ・したも)をつけ、紕帯(そえおび)を締めています。

さらに肩には領巾[比礼](ひれ)をかけています。

 

 

平安時代

 ー遣唐使停止(894年)を機とした日本文化のめばえ 国風装束への変化ー

  公家女房、裙帯比礼(くんたい ひれ)の物具装束(もののぐ しょうぞく)

女房装束の晴れの姿はいわゆる十二単と呼ばれ、これが最高の服装のように思われていますが、さらに厳儀(げんぎ)の時には裙帯(くんたい)、領巾[比礼](ひれ)をつけ、髪を垂らした後、結い上げ、宝冠(ほうかん)をつけていました。

奈良時代の礼服の形を残したもので、これを物具装束(もののぐ しょうぞく)といいます。

 

 襪(しとうず)

 張袴(はりばかま)※多くは紅(くれない)の袴

 単(ひとえ)

 衣(きぬ)[袿(うちき)]

 打衣(うちぎぬ)

 表着(うわぎ)

 裳(も)

 唐衣(からぎぬ)

上記の通常の晴れの装いに、裙帯(くんたい)をつけ、比礼(ひれ)を肩にかけています。

※裙帯は奈良時代の紕帯(そえおび)の変化?

 

 

平安時代中期

 ー唐様(からよう)を変化させ日本独自の十二単の完成ー 

  公家女房 晴れの装い

平安時代に入り、服制も国風化が進むと、男性の装束と同様に女性の装束も奈良時代の朝服(ちょうふく)から和風に変化。

宮中における成人女性の正装であるこの姿は「女房装束」「唐衣裳」姿と記されていましたが、現在ではいわゆる「十二単」と呼ばれています。

 

 張袴(はりばかま)

  ※多くは紅(くれない)の袴。

  ※若年で未婚の場合は濃色(こきいろ=濃き紅)の袴を着用

 単(ひとえ)

 衣(きぬ)[袿(うちき)]

  ※後に「五衣(いつつぎぬ)の制」が定められ、重ね袿は五領までに。

 打衣(うちぎぬ)

 表着(うわぎ)

 裳(も)

 唐衣(からぎぬ)

 

 

江戸時代前期

 ー応仁の大乱以来の有職(ゆうそく)の乱れー

 儀式服と化した十二単、伝承の混乱

  江戸時代前期の正装の公家女房

室町時代の応仁の乱(1467~1478)の後、しきたりが不明に…。

この姿は桃山時代前後から天保14年(1843)、平安朝の裳再興までの姿。

裳には唐衣と共裂(ともぎれ)の刺繡入りの掛帯(かけおび)が用いられ、小腰(こごし)はありません。

この裳の下には纐纈(こうけち)の裳と呼ばれる裳がつけられていたもよう。

※纐纈(こうけち)の裳は享保7年(1722)の「御再興女房装束」の際に廃止。

 

 

(勉強不足過ぎて、よく理解できていません 視覚的に十二単の変遷がわかる展示でとても感動しました。)

 

 

 ①十二単の変遷  今ココ

 ②十二単[唐衣裳]の構成 

 ③平安十二単

 ④『源氏物語絵巻』で見られる直衣や唐衣

 

 

日本服飾史 女性編 (趣)   井筒 雅風 光村推古書院

 

 

 

 

【京都】「女子宮廷装束の華」展 ② 十二単[唐衣裳(からぎぬも)]

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平安時代好きブロガー なぎ です。

 

2022年 5月、

京都産業大学 むすびわざ館2階 ギャラリー (京都市下京区中堂寺命婦町1-10)での企画展「女子宮廷装束の華」を見学した時のこと。

いただいたレジュメをもとに印象的だったものと自分で少し調べたことを加えて個人的な覚え書きとして記事に残しておきたいと思います。

 

 ・十二単の変遷

 ・十二単[唐衣裳]の構成  今ココ

 ・平安十二単

 ・『源氏物語絵巻』で見られる直衣や唐衣

 

ギャラリーのウインドウでは、十二単(じゅうにひとえ)[唐衣裳(からぎぬも)]の構成がわかる展示となっていました。

女性の宮中での正装はいわゆる「十二単」の名で親しまれていますが、正式な名称や誕生の経緯について不明とのこと。

平安時代には「女房装束」や「唐衣裳」などと記されていたものの正式名称ではないそうです

 

このブログ記事では「十二単」の名称で統一して書きたいと思います。

 

以下、十二単[唐衣裳」として展示されていた 長袴(ながばかま)、単(ひとえ)、五衣(いつつぎぬ)、打衣(うちぎぬ)、表着(うわぎ)、唐衣(からぎぬ)、裳(も)を簡単にご紹介。

 

長袴(ながばかま)

この袴の色は「濃色(こきいろ)」と呼ばれ、若年で未婚の女性が身に着けたとされています。

「濃色」とは濃い紅(くれない)の意味。紫色に近いです。

※既婚の場合は、紅の袴(くれないのはかま)。

 

単(ひとえ)

裏地のない衣類。寸法は袿(うちき)よりも大きくできています。

 

五衣(いつつぎぬ)

袿(うちき)を五領重ねた呼び方。

四季折々、季節に応じた五衣で表現される「かさねの色目」が楽しまれました。

 

五衣の裾あたりを撮ってみました。

このかさねの色目は「花橘(はなたちばな)かさね」で旧暦4月頃に着用するとされます。

緑の葉をつけ、白い花が咲き、橙色の実ができるという、1年を通じて橘を表現した色目。

 

打衣(うちぎぬ)・表着(うわぎ)

 

 打衣:砧で生地を打って光沢を出した袿のこと。儀式の際には必ず着用。

    展示されているこの打衣は濃色。

 表着:一番表側に着る衣(きぬ)のこと。

    展示されている表着は、鶴岡八幡宮の御神宝を参考に製作されたのだそうです。

 

唐衣(からぎぬ)

奈良時代の「背子(からぎぬ)」が変化したものといわれ十二単の一番上に着ます。

(余談ですが、むかしむかし私は唐衣の襟がどうなっているのか不思議でなりませんでした。襟を折って裏地を見せていると知って驚いたのでした。)

 

裳(も)

奈良時代の女官が着用した巻きスカートのような形の裙(も・うわも)が変化したもの。

裳は成人女性の象徴であり、女性の成人式にあたる儀式は「着裳(ちゃくも)」あるいは「裳着(もぎ)」と呼ばれました。

(巻きスカートのような形状だったのが、この形の裳になるのは本当に不思議です。)

 

 

裳と唐衣は目上の人に仕える際に身に着けるものです。

(『源氏物語絵巻』を見ますと、貴族の私邸での女房たちは唐衣を着用しないことはあっても裳はつけていたようです。)

 

 

展示の個人的覚え書き

 ・十二単の変遷

 ・十二単[唐衣裳]の構成  今ココ

 ・平安十二単

 ・『源氏物語絵巻』で見られる直衣や唐衣

 

 

 

日本服飾史 女性編 (趣)   井筒 雅風 光村推古書院

 

 

 

【京都】「女子宮廷装束の華」展③ 平安十二単

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平安時代好きブロガー なぎ です。

 

2022年 5月、

京都産業大学 むすびわざ館2階 ギャラリー (京都市下京区中堂寺命婦町1-10)での企画展「女子宮廷装束の華」を見学した時のこと。

いただいたレジュメをもとに印象的だったものと自分で少し調べたことを加えて個人的な覚え書きとして記事に残しておきたいと思います。

 

 ・十二単の変遷

 ・十二単[唐衣裳]の構成 

 ・平安十二単  今ココ

 ・『源氏物語絵巻』で見られる直衣や唐衣

 

 

十二単[唐衣裳]

レジュメでは「平安十二単」として展示されていましたが、「平安時代に作られた十二単を再現」されているのであって、言わずもがな平安時代の遺品ではありません。

現代になって作られた十二単です。

 

こちらの十二単では、小袖と長袴が濃色(こきいろ)なので若年で未婚の女性であることを示されていますね!

※濃色=濃い紅(くれない)の色の意味。紫に近くなります。

 

胸もとに注目!

濃小袖、単(ひとえ)、袿(うちき)[衣(きぬ)]、打衣(うちぎぬ)、表着(うわぎ)、裳(も)、唐衣(からぎぬ)、といった構成です。

 

十二単の成立は平安時代中期…10世紀後半頃?

重ね袿は華美となり20枚以上着用することもありました。

平安末期から鎌倉時代にかけて重ね袿を五領まで(=袿を重ねるのは5枚まで)とする「五衣(いつつぎぬ)の制」が定められたのだとか。

現在は重ね袿は「五衣(いつつぎぬ)」と呼ばれています。

 

 

以下の写真は、「女子宮廷装束の華」展で撮影した十二単にそれぞれの名称を私が文字入れしたものです。

つ、伝わるでしょうか…

 

 

「唐衣裳」「女房装束」…俗に「十二単」と呼ばれるこの姿。

「十二単」の「十二」は「たくさん」や「多い」といった意味だそう。

 

 

展示の個人的覚え書き

 ・十二単の変遷

 ・十二単[唐衣裳]の構成 

 ・平安十二単  今ココ

 ・『源氏物語絵巻』で見られる直衣や唐衣

 

 

 

日本服飾史 女性編 (趣)   井筒 雅風 光村推古書院

 

 

 

【京都】「女子宮廷装束の華」展④ 『国宝 源氏物語絵巻』で見られる直衣や唐衣

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平安時代好きブロガー なぎ です。

 

2022年 5月、

京都産業大学 むすびわざ館2階 ギャラリー (京都市下京区中堂寺命婦町1-10)での企画展「女子宮廷装束の華」を見学した時のこと。

いただいたレジュメをもとに印象的だったものと自分で少し調べたことを加えて個人的な覚え書きとして記事に残しておきたいと思います。

 

 ①十二単の変遷

 ②十二単[唐衣裳]の構成 

 ③平安十二単 

 ④『源氏物語絵巻』で見られる直衣や唐衣  今ココ

 

 

会場では国宝『源氏物語絵巻』で見られる直衣(のうし)や唐衣(からぎぬ)もそれぞれ2点ずつ展示されていました。

❝ ❞内、説明パネルに掲載されていた文章を転記しています。

 

 

白唐花丸文直衣(からはなのまるもんのうし)

 ❝唐花丸文直衣は、唐花菱の丸文を単純化したもので、『源氏物語絵巻』においては光源氏が着用した冬の直衣の文様としてたびたび登場します。

 また、この文様は女性の唐衣の文様としても描かれています。

 また、勅許により直衣で参内することを許される「雑袍聴許(ざっぽうちょうきょ)」では、冬は白の直衣を着装することと定められていました。❞

 

(国宝『源氏物語絵巻』は愛知県名古屋市にある徳川美術館、東京都世田谷区にある五島美術館が所蔵しています)

 

 

 

 

二藍三重襷文直衣(ふたあいみえだすきもんのうし)

 ❝3本の斜線の中に四菱を配置した三重襷は、夏の直衣の文様としてよく用いられました。『源氏物語絵巻』「蓬生」では、光源氏が二藍に三重襷の文様の直衣を着用している姿がみられます。またその他の夏の場面でも、公達が夏の直衣としてよく着用しているのがみられます。

 二藍は藍を所定の色に染め、それに紅花の紅を重ねて染めた紫系の色で、夏の直衣の色として用いられました。❞

 

(国宝『源氏物語絵巻』「蓬生」は徳川美術館所蔵)

 

 

 

 

藻勝見文唐衣(もかつみもんからぎぬ)

 ❝藻勝見文は、『伴大納言絵巻』など多くの絵巻物に描かれる袍に見られる文様です。「勝見」とは、一般的にマコモ(真菰)の別称とされます。『源氏物語絵巻』「柏木一」では女房の唐衣に描かれています。❞

 

(国宝『源氏物語絵巻』「柏木一」は徳川美術館所蔵)

 

 

 

 

梅散文唐衣(うめちらしもんからぎぬ)

 ❝旧暦の正月に芳香とともに開花する梅は、初春のシンボルでもあり、人々に愛され続けた植物です。そのため文様としても多くのバリエーションを持ちます。梅散文は花の模様を多数散りばめたもので、『源氏物語絵巻』「柏木三」では女房の唐衣の文様として描かれました。❞

 

(国宝『源氏物語絵巻』「柏木三」は徳川美術館所蔵)

 

 

国宝『源氏物語絵巻』を見ながら文様を参考にして自分でイラストを描くことが度々あったので、『源氏物語絵巻』にはとても思い入れがあります。

 

今回、この展示において『源氏物語絵巻』に見られる文様での直衣や唐衣も見ることができて嬉しかったです!

 

 

…というわけで、展示の個人的覚え書きでした。

 ①十二単の変遷

 ②十二単[唐衣裳]の構成 

 ③平安十二単 

 ④『源氏物語絵巻』で見られる直衣や唐衣  今ココ

 

 

京都産業大学むすびわざ館2階 ギャラリー

 第25回企画展「女子宮廷装束の華」

 2022年 5月18日(月)~ 7月 9日(土)

 

 

 

日本服飾史 男性編 (趣)   井筒 雅風 光村推古書院

 

日本服飾史 女性編 (趣)   井筒 雅風 光村推古書院

 

 

【風俗博物館】七月七日 七夕の節句 ~七夕のルーツ・乞巧奠~ (『源氏物語』「幻」より)

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平安時代好きブロガー なぎ です。

 

7月7日は 七夕 ですね!

 

七夕の起こりは

 

牽牛星[彦星」と織女星[織姫]が年に一度、天の川を渡って逢瀬を楽しむという伝説[二星会合(にせいかいごう)] 織女星に機織(はたおり)や手芸上達を願う行事[乞巧奠(きっこうてん・きこうでん)]

 

  \ 1 と 2 が合体 !!! /

 

どちらも中国由来の伝説や行事なのだそうです。

 

2022年の風俗博物館の展示では、

二星会合(にせいかいごう)と乞巧奠(きっこうてん・きこうでん)を主とした七夕の夜を、紫の上の生前の姿(幼い頃)と光源氏として具現化されており、 光源氏の前にある机の上には、梶の葉・硯・筆が置いてあります。

具現化された紫の上と光源氏のポーズや配置は、『扇面古写経絵』のうちのひとつをモデルにされているのだそう。

扇面古写経絵(模本)[東京国立博物館 画像検索より]

 

机の上にある梶(かじ)の葉と硯と筆。

梶の葉に和歌を書きます。

 

レジュメより

 ❝梶は古来より神に捧げる神聖な木とされていました。梶の葉は天の川を渡る船の舵(かじ)になぞらえ乞巧奠には欠かせない植物とされました。七夕では梶の葉に和歌をしたためて祭壇に供え、詩歌や手芸の上達を祈ったといいます。その名残は現在、短冊に願い事を書くという形で受け継がれています❞

 

 

梶の葉は、カジノキ(梶の木)の葉のこと。

クワ科の落葉高木でコウゾ(楮)の仲間。

大きな葉で表面はざらつき、裏面には毛が密生しているのだとか。

そのため墨の乗りが良いようです。

 

 

祭壇には、糸や針、蓮の香花、琴(筝または和琴、琵琶)、

茄子、桃、大豆、干鯛

酒盃

熟瓜、梨、大角豆(ささげ)、薄鮑 などが供えられました。

 

 

『源氏物語』「幻」では、

紫の上を亡くした光源氏が過ごす七月七日にも触れられています。

光源氏は管弦の遊びなどもせず、何もせずに一日中物思いに耽って過ごし、牽牛星[彦星]や織女星[織姫]の逢瀬を見る人もいません…。

 

在りし日の幼い紫の上

哀しいですね…。

 

 

(*´ω`)oO(お気づきだろうか。光源氏が座っている畳の縁(へり)と紫の上が座っている畳の縁とでは違っていることを…。光源氏の畳は繧繝縁。紫の上の畳は高麗縁。こういう細かいところにも身分の差を表して展示されるのですね。)

 

 

この記事の掲載写真は風俗博物館の展示[2022年 5月撮影] の様子です。

 

  五節句のルーツをたどる・平安時代の年中行事

   七月七日 七夕の節句  ~七夕のルーツ・乞巧奠~(『源氏物語』「幻」より) 

   ~平安女性の務め 装束の誂え・裁縫~

 

 風俗博物館

  https://www.iz2.or.jp/

  京都市下京区堀川通新花屋町下る(井筒左女牛ビル5階)

 

 

 

源氏物語と京都 六條院へ出かけよう   邦治, 五島 宗教文化研究所

 

 

 

 

 

 


【風俗博物館】平安女性の務め 装束誂え(あつらえ)・裁縫

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平安時代好きブロガー なぎ です。

 

七月七日の夜は、牽牛星(けんぎゅうせい)と織女星(しょくじょせい)が年に一度、天の川を渡って逢瀬を楽しむという伝説がある日。

 

伝説の二星

牽牛星(彦星)=農耕の神 織女星(織姫)=裁縫の神

 

七月七日は織女星(しょくじょせい)にちなみ裁縫の上達を願う日でもあるのだとか。

 

2022年の風俗博物館では、七夕の節句の展示において平安時代の女性が担った裁縫の様々な工程についても展示されていました。

 

 

平安女性の務め 装束誂え(あつらえ)・裁縫

 

 染める

糸を染める。

 

 

 

 布を裁つ(たつ)

刀子(とうす)を手に裁板(たちいた)の上に体重をかけて裁つ。

 

 

 打ち物(うちもの)

絹を砧(きぬた)で打って光沢を出す作業。

 

 

 

 地直し(じなおし)

反物の整理。

 

 

 

 綿入れ(わたいれ)

防寒のため綿入れの用意。

 

 

 

 ひねり

裏地のない単仕立ての裁ち生地の端を、もち米を練って作った糊(のり)[続飯(そくい)]をつけ、絎(く)けずに「ひねる」という仕立てをしたもの。

 

 

 

 縫う

装束を縫う

 

 

以上、装束を誂える工程の展示でした。

完成された装束の展示を見ることはあっても、その工程を知る機会は少ないので興味深いですね!

 

 

この記事の掲載写真は、風俗博物館の展示[2022年 5月撮影] の一部です。

 

  五節句のルーツをたどる・平安時代の年中行事

    七月七日 七夕の節句  ~七夕のルーツ・乞巧奠~(『源氏物語』「幻」より)

    ~平安女性の務め 装束の誂え・裁縫~

 

 

 風俗博物館

   https://www.iz2.or.jp/

   京都市下京区堀川通新花屋町下る(井筒左女牛ビル5階)

 

 

源氏物語と京都 六條院へ出かけよう   邦治, 五島 宗教文化研究所

 

日本服飾史 女性編 (趣)   井筒 雅風 光村推古書院

 

日本服飾史 男性編 (趣)   井筒 雅風 光村推古書院

 

 

 

【平安あれこれ】索餅(さくべい)[麦縄(むぎなわ)]から素麺へ

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平安時代好きブロガー なぎ です。

 

日本の古代に食べられた「索餅(さくべい)」。

奈良時代に唐から伝わったといいます。

 

【写真は油で揚げられたお菓子「索餅」】

 

「索餅」の「索」は、縄状という意味。

「索餅」の「餅」は、日本でいうお餅ではなく、小麦粉と米粉を混ぜ合わせたものです。

つまり、「索餅」は小麦粉と米粉を練り合わせ縄状に伸ばしたもの。

 

また、「索餅」は「麦縄(むぎなわ)」とも呼ばれます。

 

 

【写真は、三輪山本で販売されている「麦縄菓子」】

 

平安時代の『延喜式』(=法令集)によると、「索餅」の主原料は、小麦粉・米粉・塩。

副原料として、クロダイズ、アズキなど多種類を挙げられているのだとか。

いろいろな「索餅」が存在していそうですよね!

 

古代の「索餅」は七夕[7月7日]に食べられていましたが、

現在は「素麺(そうめん)」が七夕[7月7日]に食べられるようになっています。

 

元々は中国の伝説により「瘧(おこり=熱病)」除けのために7月7日に「麦餅」を食べる習慣があったそうです。

それが奈良時代の日本に入り、のちに7月7日に「索餅」を食べることに繋がったのだとか。

 

「索餅」については現在以下のようないくつかの説があるのだそうです。

干しウドン説 揚げた菓子説 干しウドンと揚げた菓子が両方あった説 めんから揚げた菓子へ変化説

 

古代史や食文化史では「干しウドン説」が有力で、乾燥させて保存したものを茹でて醤(ひしお=醤油の元祖)や酢などに付けて食べていたようです。

「索餅」は平安京の東市・西市でも売られていたので、庶民も口にしていたとのこと。

一方、かつて油は大変高価なものでした。

揚げ菓子だと主に貴族層に食べられていたのかもしれませんね。

 

【写真は過去の風俗博物館の展示より。索餅を前にして座る紫の上】

 

一般的に「素麺(そうめん)」の先祖は「索餅(さくべい)」と言われていますが、必ずしもそうとは断言できないようで…(?)

 

鎌倉時代頃になると宋から「索麺(さくめん)」が日本に入ってきます。

「索餅(さくべい)」が縄状になった餅ならば、「索麺(さくめん)」は縄状になった麺?

当時の「索餅」と「索麺」は同じものなのか?全く異なるものなのか?

 

では現在の「素麺(そうめん)」は?

「索」と「素」という漢字は似ていますし、「さくめん」→「そうめん」という音も似ているかも?

 

後には「索餅」「索麺」「素麺」が記録に混在しているのだとか。

もうどれがどれやら!?

 

麺繋がりから「素麺(そうめん)」の直接の先祖は「索餅(さくべい)」ではなく「索麺(さくめん)」だという説もあるそうです。

 

「索餅(さくべい)」あるいは「索麺(さくめん)」に油を利用して延ばしていったものが「素麺(そうめん)」。

「索餅(さくべい)」を7月7日に食べる文化がやがて「素麺(そうめん)」に置き換わったと思ってよいようです。

 

冷え冷えの素麺っておいしいですよね!

 

夏は揚げ物より冷やしたものが好まれる傾向にありますが、日本で素麺(そうめん)が親しまれるのは豊富な水がある環境だからこそかもしれません。

 

もちろん私は揚げ菓子としての「索餅」も大好きです。

 

 

【参考】

虎屋文庫 編『和菓子 特集ー唐菓子』第12号 黒川光博 2005年

前川佳代 ことのまあかりonline講座『七夕と索餅』レジュメ 2020年 7月 3日開催

八條忠基 淡交社カルチャーオンライン講座『八條先生の有職故実講座 年中行事 五節供「七夕」と「乞巧奠」』レジュメ 2021年 6月27日開催

風俗博物館旧トップページ六条院四季の移ろい 文月

そうめんの山道島原そうめんについて島原そうめんの歴史素麺の起源「索餅(さくへい)」と「索麺(さくめん)」

 

 

↓ 油で揚げる「索餅」のレシピも掲載されています

古典がおいしい! 平安時代のスイーツ   前川 佳代 かもがわ出版

 

 

 

 

【平安あれこれ】重陽の節供(節句)菊の着せ綿と菊酒

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平安時代好きブロガー なぎ です。

 

旧暦9月9日は「重陽の節供(節句)」。「菊の節供(節句)」とも。

(2022年の場合は10月4日にあたります)

 

月と日が「陽(よう)」[=奇数] の最大の数字 九 を重ねることことから「重陽(ちょうよう)」と呼ばれます。

 

平安時代、宇多天皇の時代に始まった「菊の着せ綿[被せ綿](きせわた)」という習慣では

 8月8日の夕方に真綿を菊の花にかぶせる  翌朝9日、菊の露に濡れた綿で肌を撫でる

そうすると、老いを棄てられる・延寿の効き目があるのだとか…  

 

 

また、重陽の日には、菊の花を浸したり花びらを浮かべたりした酒…「菊酒」を飲んで長寿を願ったそうです。

 

 

さて。

平安時代の菊の着せ綿は

菊の花に綿をかぶせること以外、細かい規定はなかったのですが…  

 

  ↓↓↓

江戸時代の菊の着せ綿は

 白い菊には黄色の綿

 黄色の菊には赤色の綿

 赤い菊には白い綿  という決まりに。

 

平安時代も江戸時代も素敵ですよね!!

 

平安時代の菊の着せ綿といいますと、紫式部が藤原道長の正妻・源倫子から菊の着せ綿を賜ったエピソードが有名です。

それについては、別記事で書いていますのでご興味がおありの方はどうぞ。

 

 

この記事の掲載写真は、風俗博物館の展示[2022年 5月撮影] の一部です。

記事本文は展示レジュメを参考にしています。

 

  五節句のルーツをたどる・平安時代の年中行事

    九月九日 重陽の節供  ~菊まつりのルーツ・重陽~

  

 風俗博物館

   https://www.iz2.or.jp/

   京都市下京区堀川通新花屋町下る(井筒左女牛ビル5階)

 

 

源氏物語と京都 六條院へ出かけよう   五島 邦治 宗教文化研究所

 

日本古典風俗辞典 (角川ソフィア文庫)   室伏 信助 KADOKAWA

 

はじめての王朝文化辞典 (角川ソフィア文庫)   川村 裕子 KADOKAWA

 

 

 

 

 

【平安あれこれ】中秋の名月 2022年

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平安時代好きブロガー なぎ です。

 

2022年 9月10日(土)は、旧暦における 8月15日。

毎月訪れる旧暦15日の夜の月(=十五夜)のうち、旧暦 8月15日の夜に見える月(=十五夜)を「中秋の名月」と呼びます。

 

[2022年 9月10日(土)午後 7時30分頃撮影]

 

2022年の場合、9月10日(土)午後6時59分ごろ満月となったのだとか。

 

「中秋の名月(十五夜)」と「満月」は必ずしも一致しませんが、2021年と2022年と2023年は連続して一致し、再来年以降は、「中秋の名月」と「満月」は1日~2日程度ズレが生じるそうです。

(次回、「中秋の名月(十五夜)」と「満月」が一致するのは2030年だそうですよ)

 

 

十五夜というと、以下の『源氏物語』須磨巻の一場面が思い出されます。

 

『源氏物語』「須磨」より

 

  月のいとはなやかにさし出でたるに、「今宵は十五夜なりけり」と思し出でて、

 

 [現代語訳:月がとても明るく差し出たので、「今夜は十五夜であったのだなあ」とお思い出しになって、]

 

 

【本文と訳はwebサイト『源氏物語の世界』より引用】

 

須磨にいる光源氏が、とてもはなやかにさし出た月に 八月十五夜(=中秋の名月)であったと思い出す場面です。

 

 

『源氏物語』は石山寺(滋賀県大津市)に参篭中の紫式部が琵琶湖の湖面に映える美しい十五夜の月を眺めて、「今宵は十五夜なりけり」と書き出したという、「源氏物語起筆伝説」があります。

 

[2017年 3月 4日 石山寺 源氏の間 にて撮影]

 

 

「今宵は十五夜なりけり」…『源氏物語』の読者たちはそれぞれの胸中で美しい月の姿を思い浮かべたのでしょうね。

 

[2022年 9月10日(土)午後 7時40分頃撮影]

 

【情報】風俗博物館 2022年の展示は10月31日まで

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平安時代好きブロガー なぎ です。

 

京都市下京区にある風俗博物館では、『源氏物語』の様々なシーンを選び具現展示をされています。

平安時代や源氏物語が好きな人々にとっては聖地とも呼べる博物館。

 

現在の展示内容での展示期間は

 令和 4年(2022年)9月20日(火)から10月31日(月)までのようです。(日曜・祝日は休館)

 ※令和 4年(2022年) 8月 1日(月)から 9月19日(月)までは展示替えのため休館されていました。

 ※次の展示替え期間(=休館)は、11月 1日~令和 5年 2月 3日の予定とのこと。

 

 

【展示内容】

五節供のルーツをたどる・平安時代の年中行事

一月七日 人日の節供 ~七草粥のルーツ・平安時代の若菜摘み~(『百人一首』より) 三月三日  上巳の節供 ~ひなまつりのルーツ・曲水の宴~ 五月五日  端午の節供 ~こどもの日のルーツ・端午~(『源氏物語』「蛍」より) 歳暮の衣配り  ―源氏ゆかりの女君達への歳暮―(『源氏物語』「玉鬘」より) 女房の日常・局  ~王朝女性の身嗜み・黒髪~ 平安の遊び  ~偏つぎ~ ~碁~ 四季のかさね色目に見る平安王朝の美意識 九月九日 重陽の節供  ~菊まつりのルーツ・重陽~

 



令和 4年 4月 4日(日)から 7月31日(日)までの展示内容とほぼ同じようですが、今期の展示ではサブタイトル4のみ変更があります。

 

 4.七月七日 七夕の節供 ~七夕のルーツ・乞巧奠~(『源氏物語』「幻」より)

   ↓ ↓ ↓ 変更後 ↓ ↓ ↓

 4.歳暮の衣配り  ―源氏ゆかりの女君達への歳暮―(『源氏物語』「玉鬘」より)

 

4は、丸ごと展示内容が異なってるようですね。

他にも細部が変更されていそうな気がします。

 

可能ならば今期も博物館へ展示を見に行きたいものです…!

 

 

以下、令和 4年(2022年) 5月に撮影した展示の様子。

一月七日 人日の節供

 

三月三日 上巳の節供

 

五月五日 端午の節供

 

四季のかさね色目に見る平安王朝の美意識

 

九月九日 重陽の節供

 

 

 風俗博物館

   https://www.iz2.or.jp/

   京都市下京区堀川通新花屋町下る(井筒左女牛ビル5階)

 

 

源氏物語と京都 六條院へ出かけよう   五島邦治 宗教文化研究所

 

源氏物語 六条院の生活   五島邦治 青幻舎

 

日本服飾史 男性編 (趣)   井筒 雅風 光村推古書院

 

日本服飾史 女性編 (趣)   井筒 雅風 光村推古書院

 

 

 

 

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