※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2008年)
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現況と異なる部分も含まれていることと思います。ご了承くださいませ。
源 融 (みなもとのとおる)
822年(弘仁13年)~895年(寛平7年)8月25日
平安時代初期の廷臣。通称:河原左大臣。
父は、嵯峨天皇。母は、大原全子。仁明天皇の養子となり、838年(承和5年)内裏で元服。累進して872年(貞観14年)8月、左大臣となる。死後正一位を追贈された。
六条坊門小路南、万里小路東に邸宅を営み、河原院(かわらのいん)または東六条院と号した。
嵯峨の山荘・棲霞観(せいかかん)や宇治に別荘を造り、豪奢な生活を送った。
『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルともいわれている。
歌人としても知られ、『古今和歌集』・『百人一首』に
陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに
乱れそめにし われならなくに
(陸奥<みちのく>の「しのぶもじずり」の乱れ模様の布のように、あなた以外の誰のために私の心は乱れはじめてしまったというのか、私のせいではなく、あなたのせいなのだ。)
が収められている。
嵯峨にある清凉寺は、融の山荘・棲霞観跡と伝えられ、境内には源融の墓といわれる石塔がある。
また融の宇治の山荘跡は、のちに藤原道長に渡り「宇治殿」となり、その子・頼通が寺に改めたのが平等院の始まりである。
(源融の宇治の山荘について平等院とは別位置であるという指摘もあり。)
現在、河原院跡に建つ本覚寺(京都市下京区)に源融像が安置されている。錦天満宮(京都市中京区)には境内に源融を祀る塩竃神社がある。
そのほか、滋賀県大津市には源融とその母・大原全子を祀る「融神社」がある。
源融が難波(大阪湾)から海水を京の河原院に運ばせたことにちなみ、兵庫県尼崎市に源融を祀る「琴浦神社」がある。
河原院とは?
源融が創始した平安前期に栄えた邸宅。
庭の池には鴨川の水を引き入れ、陸奥国の塩竃(しおがま)の浦を模した。当時、「陸奥の塩竃」は歌枕で有名であった。
また毎月、難波から30石の海水をその池に運ばせては、塩を焼く煙の風情を楽しんだという。塩焼きとは製塩のこと。
能の「融」はこの塩竃を素材とした曲である。
河原院は融から、融の子・昇に伝えられ、さらに宇多法皇に寄進され仙洞となった。法皇の死後、この邸宅は寺へと改められた。
1000年(長保2)年に、融の子で僧の仁康聖人(にんこうしょうにん)が祗陀林寺(ぎだりんじ)を開創するにあたって、河原院の本尊を移したと伝える。
『都名所図会』の河原院蹟の項目によると次のような一文がある。
〔今五条橋の南、鴨川高瀬川の間に森あり、これを籬(まがき)の森といふ。河原院の遺跡なり〕
現在、河原院址の碑があるあたりはかつて“籬(まがき)の森が”あったという。これは河原院の庭の池にあった“籬(まがき)の島”の名残であると伝わる。
“籬の島”とは、宮城県塩竈市の千賀の浦(塩釜港)にある小島のこと。
その後、河原院は度々火災に遭い荒廃していった。
平安時代中期の歌人・恵慶法師(えぎょうほうし)は、河原院の荒廃の様子を以下のように歌っている。<拾遺和歌集より>
河原院にて荒れたる宿に秋来(きたる)といふ心を人々詠み侍(はべり)けるに
八重むぐら しげれる宿の さびしきに
人こそ見えね 秋は来にけり
(葎が幾重にも生い茂って荒れ果てた河原院はただでさえ寂しい様子なのに、誰ひとり人の姿は見えないで、秋だけはやって来たことだ。)
上記の歌は『百人一首』にも収められている。
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源 融 (みなもとのとおる)
822年(弘仁13年)~895年(寛平7年)8月25日
平安時代初期の廷臣。通称:河原左大臣。
父は、嵯峨天皇。母は、大原全子。仁明天皇の養子となり、838年(承和5年)内裏で元服。累進して872年(貞観14年)8月、左大臣となる。死後正一位を追贈された。
六条坊門小路南、万里小路東に邸宅を営み、河原院(かわらのいん)または東六条院と号した。
嵯峨の山荘・棲霞観(せいかかん)や宇治に別荘を造り、豪奢な生活を送った。
『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルともいわれている。
歌人としても知られ、『古今和歌集』・『百人一首』に
陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに
乱れそめにし われならなくに
(陸奥<みちのく>の「しのぶもじずり」の乱れ模様の布のように、あなた以外の誰のために私の心は乱れはじめてしまったというのか、私のせいではなく、あなたのせいなのだ。)
が収められている。
嵯峨にある清凉寺は、融の山荘・棲霞観跡と伝えられ、境内には源融の墓といわれる石塔がある。
また融の宇治の山荘跡は、のちに藤原道長に渡り「宇治殿」となり、その子・頼通が寺に改めたのが平等院の始まりである。
(源融の宇治の山荘について平等院とは別位置であるという指摘もあり。)
現在、河原院跡に建つ本覚寺(京都市下京区)に源融像が安置されている。錦天満宮(京都市中京区)には境内に源融を祀る塩竃神社がある。
そのほか、滋賀県大津市には源融とその母・大原全子を祀る「融神社」がある。
源融が難波(大阪湾)から海水を京の河原院に運ばせたことにちなみ、兵庫県尼崎市に源融を祀る「琴浦神社」がある。
河原院とは?
源融が創始した平安前期に栄えた邸宅。
庭の池には鴨川の水を引き入れ、陸奥国の塩竃(しおがま)の浦を模した。当時、「陸奥の塩竃」は歌枕で有名であった。
また毎月、難波から30石の海水をその池に運ばせては、塩を焼く煙の風情を楽しんだという。塩焼きとは製塩のこと。
能の「融」はこの塩竃を素材とした曲である。
河原院は融から、融の子・昇に伝えられ、さらに宇多法皇に寄進され仙洞となった。法皇の死後、この邸宅は寺へと改められた。
1000年(長保2)年に、融の子で僧の仁康聖人(にんこうしょうにん)が祗陀林寺(ぎだりんじ)を開創するにあたって、河原院の本尊を移したと伝える。
『都名所図会』の河原院蹟の項目によると次のような一文がある。
〔今五条橋の南、鴨川高瀬川の間に森あり、これを籬(まがき)の森といふ。河原院の遺跡なり〕
現在、河原院址の碑があるあたりはかつて“籬(まがき)の森が”あったという。これは河原院の庭の池にあった“籬(まがき)の島”の名残であると伝わる。
“籬の島”とは、宮城県塩竈市の千賀の浦(塩釜港)にある小島のこと。
その後、河原院は度々火災に遭い荒廃していった。
平安時代中期の歌人・恵慶法師(えぎょうほうし)は、河原院の荒廃の様子を以下のように歌っている。<拾遺和歌集より>
河原院にて荒れたる宿に秋来(きたる)といふ心を人々詠み侍(はべり)けるに
八重むぐら しげれる宿の さびしきに
人こそ見えね 秋は来にけり
(葎が幾重にも生い茂って荒れ果てた河原院はただでさえ寂しい様子なのに、誰ひとり人の姿は見えないで、秋だけはやって来たことだ。)
上記の歌は『百人一首』にも収められている。