※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2004年)
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現況と異なる部分も含まれていることと思います。ご了承くださいませ。
水城と大宰府
水城と大宰府その1の続きです。
大宰府政庁跡
<都府楼跡(とふろうあと)>
●所在地:福岡県太宰府市観世音寺4丁目
●交通 :太宰府市コミュニティバスまほろば号「大宰府政庁跡」下車
:西鉄電車「都府楼前」駅下車 徒歩15分
≪「筑紫万葉のふるさと 観光と史跡散策 太宰府」のパンフレットより≫
“都府楼跡(とふろうあと)”の名前で親しまれている大宰府政庁跡は九州全体を治める役所大宰府があった所である。
7世紀の後半から奈良・平安時代を通じて九州を治め、わが国の西の守りとして防衛を、また外国との交渉の窓口として重要な役割を果たしてきた。
現在も大宰府政庁跡の中心にはその大きさをしのばせる立派な礎石が残り、そこを中心に門や回廊、そして周辺の役所跡が復元され、公園となっている。
*大宰府政庁図
注)上の図は、『大宰府史跡発掘調査30周年記念特別展 「大宰府復元」』(九州歴史資料館・平成10年10月23日発行)に掲載されていた政庁第Ⅲ期 の図とパンフレット等に掲載されている政庁模型の写真を参考にして、なぎ が書いたものです。正確なものではございませんので、学術的な資料を求められる方は専門書をご覧下さいませ。<(_ _)>
大宰府政庁跡 入り口
「史蹟太宰府阯」と「都府樓趾」の石碑があります。
大宰府政庁のことを「都府楼(とふろう)」ともよばれるのは、菅原道真が詠んだ漢詩の一部
都府樓纔看瓦色
(都府の楼にはわづかに瓦の色を看る)
が由来といわれています。
大宰府政庁入り口
北に大野城があった大野山がそびえたっています。
階段の上には、南門跡があります。
南門跡に立って北を見たところ。
中門跡と奥に正殿が見えます。
中門跡に立って北を見たところ。
正殿にだいぶ近づいてきました♪
大宰府政庁 正殿跡
≪看板より≫
正殿跡とは
大宰府の長官である帥(そち)が政務を執り、これと関わる儀礼や儀式で最も重要な役割を果した場が正殿である。
大宰府は中央政府の縮小版として西海道(九州)の管内諸国を統轄していた。
宮都での元旦拝賀を参考にすれば、大宰府でも元旦には管内諸国から国司たちが集い、正殿に座した帥に拝賀する儀礼が行われたと思われる。
このように正殿はその政治的秩序を保つための威厳に満ちた建物だったことだろう。
正殿から南を見てみました。
この白砂の部分に役人たちが集まったと考えられます。
大宰府の南には、基肄城(きいじょう)がありました。
正殿から南西を見たところ。
西側の脇殿跡が見えます。
大宰府の西側には、水城があり、さらに丘陵があります。
正殿から南東を見たところ。
東側の脇殿跡が見えます。
大宰府政庁の東にある月山には漏刻(水時計)があったと伝えられています。
正殿から北門を見たところ。
築地塀に見立てた植え込みが途切れた部分が北門部分です。
大宰府政庁跡の東にある「大宰府展示館」では、大宰府や周辺史跡の歴史がわかりやすく紹介されています。
大宰府展示館においてあったスタンプ。
大宰府史跡出土の鬼瓦は朝鮮半島の影響を受けているそうです。
なぜか「漢倭奴国王」のスタンプもありました。
復元模型 奈良時代
大宰府式鬼瓦
大宰府政庁跡で出土した鬼瓦を長さ・幅ともに2倍の大きさで復元されたものです。
大宰府政庁正殿の魔よけとして用いられていました。<「太宰府館」にて撮影>
大宰府政庁跡出土 軒丸瓦(のきまるかわら)<『太宰府館』にて撮影>
大宰府政庁南門模型<九州国立博物館で撮影>
門前には、役人や僧、壺装束姿の女性、遊ぶ子どもなどの賑わいが再現されています。
【本文引用・参考】
「新編日本古典文学全集4 日本書紀3
巻第二十三舒明天皇~巻第三十持統天皇」 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守 /校注・訳者 小学館 発行
【参考】
「目で見る太宰府市の文化財1 特別史跡 水城跡」 財団法人古都大宰府保存協会 発行
「大宰府史跡発掘調査3030周年記念特別展 大宰府復元」九州歴史資料館 編集・発行
「太宰府紀行」 森弘子 監修 (財)古都大宰府保存協会 編
太宰府市 公式HP
筑紫野市 公式HP
大宰府と『源氏物語』の関係にご興味をお持ちの方は、webサイト『花橘亭~源氏物語を楽しむ~』の「源氏物語ゆかりの地をめぐる 遥かなる筑紫 太宰府」もご覧くださいませ。
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水城と大宰府
水城と大宰府その1の続きです。
大宰府政庁跡
<都府楼跡(とふろうあと)>
●所在地:福岡県太宰府市観世音寺4丁目
●交通 :太宰府市コミュニティバスまほろば号「大宰府政庁跡」下車
:西鉄電車「都府楼前」駅下車 徒歩15分
≪「筑紫万葉のふるさと 観光と史跡散策 太宰府」のパンフレットより≫
“都府楼跡(とふろうあと)”の名前で親しまれている大宰府政庁跡は九州全体を治める役所大宰府があった所である。
7世紀の後半から奈良・平安時代を通じて九州を治め、わが国の西の守りとして防衛を、また外国との交渉の窓口として重要な役割を果たしてきた。
現在も大宰府政庁跡の中心にはその大きさをしのばせる立派な礎石が残り、そこを中心に門や回廊、そして周辺の役所跡が復元され、公園となっている。
*大宰府政庁図
注)上の図は、『大宰府史跡発掘調査30周年記念特別展 「大宰府復元」』(九州歴史資料館・平成10年10月23日発行)に掲載されていた政庁第Ⅲ期 の図とパンフレット等に掲載されている政庁模型の写真を参考にして、なぎ が書いたものです。正確なものではございませんので、学術的な資料を求められる方は専門書をご覧下さいませ。<(_ _)>
大宰府政庁跡 入り口
「史蹟太宰府阯」と「都府樓趾」の石碑があります。
大宰府政庁のことを「都府楼(とふろう)」ともよばれるのは、菅原道真が詠んだ漢詩の一部
都府樓纔看瓦色
(都府の楼にはわづかに瓦の色を看る)
が由来といわれています。
大宰府政庁入り口
北に大野城があった大野山がそびえたっています。
階段の上には、南門跡があります。
南門跡に立って北を見たところ。
中門跡と奥に正殿が見えます。
中門跡に立って北を見たところ。
正殿にだいぶ近づいてきました♪
大宰府政庁 正殿跡
≪看板より≫
正殿跡とは
大宰府の長官である帥(そち)が政務を執り、これと関わる儀礼や儀式で最も重要な役割を果した場が正殿である。
大宰府は中央政府の縮小版として西海道(九州)の管内諸国を統轄していた。
宮都での元旦拝賀を参考にすれば、大宰府でも元旦には管内諸国から国司たちが集い、正殿に座した帥に拝賀する儀礼が行われたと思われる。
このように正殿はその政治的秩序を保つための威厳に満ちた建物だったことだろう。
正殿から南を見てみました。
この白砂の部分に役人たちが集まったと考えられます。
大宰府の南には、基肄城(きいじょう)がありました。
正殿から南西を見たところ。
西側の脇殿跡が見えます。
大宰府の西側には、水城があり、さらに丘陵があります。
正殿から南東を見たところ。
東側の脇殿跡が見えます。
大宰府政庁の東にある月山には漏刻(水時計)があったと伝えられています。
正殿から北門を見たところ。
築地塀に見立てた植え込みが途切れた部分が北門部分です。
大宰府政庁跡の東にある「大宰府展示館」では、大宰府や周辺史跡の歴史がわかりやすく紹介されています。
大宰府展示館においてあったスタンプ。
大宰府史跡出土の鬼瓦は朝鮮半島の影響を受けているそうです。
なぜか「漢倭奴国王」のスタンプもありました。
復元模型 奈良時代
大宰府式鬼瓦
大宰府政庁跡で出土した鬼瓦を長さ・幅ともに2倍の大きさで復元されたものです。
大宰府政庁正殿の魔よけとして用いられていました。<「太宰府館」にて撮影>
大宰府政庁跡出土 軒丸瓦(のきまるかわら)<『太宰府館』にて撮影>
大宰府政庁南門模型<九州国立博物館で撮影>
門前には、役人や僧、壺装束姿の女性、遊ぶ子どもなどの賑わいが再現されています。
【本文引用・参考】
「新編日本古典文学全集4 日本書紀3
巻第二十三舒明天皇~巻第三十持統天皇」 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守 /校注・訳者 小学館 発行
【参考】
「目で見る太宰府市の文化財1 特別史跡 水城跡」 財団法人古都大宰府保存協会 発行
「大宰府史跡発掘調査3030周年記念特別展 大宰府復元」九州歴史資料館 編集・発行
「太宰府紀行」 森弘子 監修 (財)古都大宰府保存協会 編
太宰府市 公式HP
筑紫野市 公式HP
大宰府と『源氏物語』の関係にご興味をお持ちの方は、webサイト『花橘亭~源氏物語を楽しむ~』の「源氏物語ゆかりの地をめぐる 遥かなる筑紫 太宰府」もご覧くださいませ。