※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2004年)
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現況と異なる部分も含まれていることと思います。ご了承くださいませ。
斉明女帝の朝倉橘広庭宮と木の丸殿1>2
宝皇女
第35代 皇極天皇・第37代 斉明天皇
天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)天皇
宝皇女は、初めに高向王(たかむくおう)に嫁がれ、漢皇子(あやのみこ)をお生みになり、後に田村皇子<のちの舒明天皇>に嫁がれ、葛城皇子(かつらぎのみこ)・間人皇女(はしひとのひめみこ)・大海皇子(おほしあまのみこ)をお生みになりました。
田村皇子の即位<舒明天皇>とともに、宝皇女は皇后となります。そして、舒明天皇が崩御された翌年に天皇として即位します。<皇極天皇>
その後、皇極天皇<宝皇女>は同母弟である軽皇子に譲位<孝徳天皇>。譲位後、皇極天皇は皇祖母尊(すめみおやのみこと)と申し上げるようになり、中大兄皇子<葛城皇子>を皇太子としました。
孝徳天皇が崩御された翌年に、皇祖母尊<宝皇女>は再び即位します。<斉明天皇>・・・日本史上、初めての重祚
斉明天皇<宝皇女>は、百済救援のため筑紫に赴きますが、筑紫の朝倉橘広庭宮で崩御。『紹運録』『水鏡』には享年68歳、『帝王編年記』には享年61歳とされています。
宝皇女が生きられた時代を見てみますと、天変地異や謀反の罪に問われ殺された人物の事件が頻繁に起きています。
◆シャーマン的!?「至徳の天皇」・・・皇極天皇時代
大干ばつが起きた時、蘇我入鹿が雨乞いの行法をすると失敗。
皇極天皇<宝皇女>は、南渕の川上に行幸され、ひざまづいて四方を拝み、天を仰いで祈られたました!
すると、雷が鳴って大雨が降り、5日間降り続いたことで、天下をあまねく潤したといいます。
国中の人民は、みな万歳と喜び称え「至徳します天皇なり(至徳の天皇である)」と申し上げました。
◆土木工事大好き!?「狂心」の天皇・・・斉明天皇時代
斉明天皇は事業を興すことを好まれ、水工(みずたくみ)に溝を掘らせ、香具山(かぐやま)の西から石上山(いそのかみやま)まで溝を通しました。舟200隻に石上山の石を積んで、水の流れに乗せて宮の東の山まで引き運び、石を積み重ねて石垣としました。
時の人は、「狂心(たぶれごころ)の渠。(狂心の溝である)」と誹謗しました。この溝を掘るのに費やした人夫は7万人余りといいます。
この後、さらに斉明天皇は奈良県吉野に吉野宮(離宮)を造営します。
※奈良県高市郡明日香村の「酒船石遺跡」が“宮の東の山の石垣”の跡ではないかといわれています。
皇極天皇時代には「至徳の天皇」とまで呼ばれたにもかかわらず、斉明天皇となってからは「狂心」と誹謗される天皇・・・。このギャップは何を表すのでしょう。
◆母の看病に専念・・・皇極天皇時代
皇極天皇<宝皇女>の母である吉備津姫王は、天皇の生母として「吉備島皇祖母命(きびのしますめらみおやのみこと)」と尊称されていました。この吉備島皇祖母命が病気に臥されてのち薨去され、喪葬が始まるまで、皇極天皇は床の傍らを離れず、誠心誠意をこめて看病なさいました。
◆孫・健王を愛した天皇・・・斉明天皇時代
息子である中大兄皇子と蘇我石川麻呂の娘・遠智娘との子、健王(たけるのみこ)は、わずか8歳で亡くなりました。
斉明天皇は、生まれつき物事に従順で節操があった孫・健王を大切に可愛がっていたので、激しく悲しみました。
「万歳千秋の後に、要(かなら)ず朕が陵に合葬(あわせはぶ)れ(私の死後、必ず私の陵に健王と合葬せよ)」と群臣に詔(みことのり)し、挽歌を3首詠んでいます。
今城なる 小丘が上に 雲だにも
著くし立たば 何か歎かむ
(今城の小丘の上に、せめて健王の姿を表す雲だけでもはっきりと立ったならば、どうしてこれほど嘆こうか)
射ゆ鹿猪を 認ぐ川上の 若草の
若くありきと 吾が思はなくに
(射られた鹿猪の足跡を求めて探す、その川辺にはえる若草のように、若く幼少であったとは私は思わないのに。→皇位継承者にふさわしかったのに)
飛鳥川 漲らひつつ 行く水の
間も無くも 思ほゆるかも
(飛鳥川があふれるように盛り上がって流れて行く、その水のように間(あいだ)も無く健王のことを思われてならないことだ・・・)
天皇はこれら3首を時々歌われては、お泣きになりました。
また、紀温湯(きのゆ)に行幸された時も健王のことを思い出し、悲しみお泣きになって、和歌を3首詠まれています。
山超えて 海渡るとも おもしろき
今城の内は 忘らゆましじ
(大和から、山を越えて海を渡っても、健王の墓所があり趣ある今城の地のことは、決して忘れられないでしょう)
水門の 潮のくだり 海くだり
後も暗に 置きてか行かむ
(河口から潮流に乗って海路を下り、都から鄙へ下る、あとのことが気になって暗い気持ちのまま、健王を置いて行くのであろうか)
愛しき 吾が若き子を
置きてか行かむ
(いとしい私の幼い孫である健王を、後に置いて行くのであろうか。)
母親思いで、孫を可愛がった宝皇女の姿は、情に熱い心優しい方だったように思われます。
◆温泉大好き!?
宝皇女は、舒明天皇の皇后時代~斉明天皇時代までの間に、津国の有間温湯・有間温湯宮(いずれも現在の兵庫県神戸市の有馬温泉)、伊予温湯宮・伊予の熟田津の石湯行宮(いずれも愛媛県松山市の道後温泉)、紀温湯(和歌山県西牟婁郡白浜町の湯崎温泉)に行幸しています。
有名な“有間皇子事件”は、斉明天皇が紀温湯に行幸して都を留守中に、有間皇子が謀反を企んだものとして紀温湯に護送され、藤白坂で絞首刑に処された事件です。
宝皇女(皇極天皇・斉明天皇)は、温泉好きなのかもしれませんね♪激動の時代を生きた宝皇女・・・。彼女はいったいどういった人物だったのか、興味が尽きません。
宝皇女(斉明天皇)が崩御された朝倉橘広庭宮跡や斉明天皇・天智天皇を祀る恵蘇八幡宮は筑後川の近くにありますが、この筑後川沿いには、歴史は浅いものの、原鶴温泉(朝倉市)という温泉があります。
(記録に残っていないだけで、斉明天皇の時代にも温泉があったりして!?)
朝倉へお越しの際は、お立ち寄りになってはいかがでしょう。
【参考・本文引用】
『新編日本古典文学全集51 十訓抄』 浅見和彦 校注・訳者/小学館 発行
『新編日本古典文学全集43 新古今和歌集』峯村文人 校注・訳者/小学館 発行
『新編日本古典文学全集4 日本書紀 3 巻第二十三 舒明天皇~巻三十 持統天皇』 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守 校注・訳者/小学館 発行
『別冊歴史読本52図説天皇陵 歴代天皇陵の歴史探訪紀』 新人物往来社 発行
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斉明女帝の朝倉橘広庭宮と木の丸殿1>2
宝皇女
第35代 皇極天皇・第37代 斉明天皇
天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)天皇
宝皇女は、初めに高向王(たかむくおう)に嫁がれ、漢皇子(あやのみこ)をお生みになり、後に田村皇子<のちの舒明天皇>に嫁がれ、葛城皇子(かつらぎのみこ)・間人皇女(はしひとのひめみこ)・大海皇子(おほしあまのみこ)をお生みになりました。
田村皇子の即位<舒明天皇>とともに、宝皇女は皇后となります。そして、舒明天皇が崩御された翌年に天皇として即位します。<皇極天皇>
その後、皇極天皇<宝皇女>は同母弟である軽皇子に譲位<孝徳天皇>。譲位後、皇極天皇は皇祖母尊(すめみおやのみこと)と申し上げるようになり、中大兄皇子<葛城皇子>を皇太子としました。
孝徳天皇が崩御された翌年に、皇祖母尊<宝皇女>は再び即位します。<斉明天皇>・・・日本史上、初めての重祚
斉明天皇<宝皇女>は、百済救援のため筑紫に赴きますが、筑紫の朝倉橘広庭宮で崩御。『紹運録』『水鏡』には享年68歳、『帝王編年記』には享年61歳とされています。
宝皇女が生きられた時代を見てみますと、天変地異や謀反の罪に問われ殺された人物の事件が頻繁に起きています。
◆シャーマン的!?「至徳の天皇」・・・皇極天皇時代
大干ばつが起きた時、蘇我入鹿が雨乞いの行法をすると失敗。
皇極天皇<宝皇女>は、南渕の川上に行幸され、ひざまづいて四方を拝み、天を仰いで祈られたました!
すると、雷が鳴って大雨が降り、5日間降り続いたことで、天下をあまねく潤したといいます。
国中の人民は、みな万歳と喜び称え「至徳します天皇なり(至徳の天皇である)」と申し上げました。
◆土木工事大好き!?「狂心」の天皇・・・斉明天皇時代
斉明天皇は事業を興すことを好まれ、水工(みずたくみ)に溝を掘らせ、香具山(かぐやま)の西から石上山(いそのかみやま)まで溝を通しました。舟200隻に石上山の石を積んで、水の流れに乗せて宮の東の山まで引き運び、石を積み重ねて石垣としました。
時の人は、「狂心(たぶれごころ)の渠。(狂心の溝である)」と誹謗しました。この溝を掘るのに費やした人夫は7万人余りといいます。
この後、さらに斉明天皇は奈良県吉野に吉野宮(離宮)を造営します。
※奈良県高市郡明日香村の「酒船石遺跡」が“宮の東の山の石垣”の跡ではないかといわれています。
皇極天皇時代には「至徳の天皇」とまで呼ばれたにもかかわらず、斉明天皇となってからは「狂心」と誹謗される天皇・・・。このギャップは何を表すのでしょう。
◆母の看病に専念・・・皇極天皇時代
皇極天皇<宝皇女>の母である吉備津姫王は、天皇の生母として「吉備島皇祖母命(きびのしますめらみおやのみこと)」と尊称されていました。この吉備島皇祖母命が病気に臥されてのち薨去され、喪葬が始まるまで、皇極天皇は床の傍らを離れず、誠心誠意をこめて看病なさいました。
◆孫・健王を愛した天皇・・・斉明天皇時代
息子である中大兄皇子と蘇我石川麻呂の娘・遠智娘との子、健王(たけるのみこ)は、わずか8歳で亡くなりました。
斉明天皇は、生まれつき物事に従順で節操があった孫・健王を大切に可愛がっていたので、激しく悲しみました。
「万歳千秋の後に、要(かなら)ず朕が陵に合葬(あわせはぶ)れ(私の死後、必ず私の陵に健王と合葬せよ)」と群臣に詔(みことのり)し、挽歌を3首詠んでいます。
今城なる 小丘が上に 雲だにも
著くし立たば 何か歎かむ
(今城の小丘の上に、せめて健王の姿を表す雲だけでもはっきりと立ったならば、どうしてこれほど嘆こうか)
射ゆ鹿猪を 認ぐ川上の 若草の
若くありきと 吾が思はなくに
(射られた鹿猪の足跡を求めて探す、その川辺にはえる若草のように、若く幼少であったとは私は思わないのに。→皇位継承者にふさわしかったのに)
飛鳥川 漲らひつつ 行く水の
間も無くも 思ほゆるかも
(飛鳥川があふれるように盛り上がって流れて行く、その水のように間(あいだ)も無く健王のことを思われてならないことだ・・・)
天皇はこれら3首を時々歌われては、お泣きになりました。
また、紀温湯(きのゆ)に行幸された時も健王のことを思い出し、悲しみお泣きになって、和歌を3首詠まれています。
山超えて 海渡るとも おもしろき
今城の内は 忘らゆましじ
(大和から、山を越えて海を渡っても、健王の墓所があり趣ある今城の地のことは、決して忘れられないでしょう)
水門の 潮のくだり 海くだり
後も暗に 置きてか行かむ
(河口から潮流に乗って海路を下り、都から鄙へ下る、あとのことが気になって暗い気持ちのまま、健王を置いて行くのであろうか)
愛しき 吾が若き子を
置きてか行かむ
(いとしい私の幼い孫である健王を、後に置いて行くのであろうか。)
母親思いで、孫を可愛がった宝皇女の姿は、情に熱い心優しい方だったように思われます。
◆温泉大好き!?
宝皇女は、舒明天皇の皇后時代~斉明天皇時代までの間に、津国の有間温湯・有間温湯宮(いずれも現在の兵庫県神戸市の有馬温泉)、伊予温湯宮・伊予の熟田津の石湯行宮(いずれも愛媛県松山市の道後温泉)、紀温湯(和歌山県西牟婁郡白浜町の湯崎温泉)に行幸しています。
有名な“有間皇子事件”は、斉明天皇が紀温湯に行幸して都を留守中に、有間皇子が謀反を企んだものとして紀温湯に護送され、藤白坂で絞首刑に処された事件です。
宝皇女(皇極天皇・斉明天皇)は、温泉好きなのかもしれませんね♪激動の時代を生きた宝皇女・・・。彼女はいったいどういった人物だったのか、興味が尽きません。
宝皇女(斉明天皇)が崩御された朝倉橘広庭宮跡や斉明天皇・天智天皇を祀る恵蘇八幡宮は筑後川の近くにありますが、この筑後川沿いには、歴史は浅いものの、原鶴温泉(朝倉市)という温泉があります。
(記録に残っていないだけで、斉明天皇の時代にも温泉があったりして!?)
朝倉へお越しの際は、お立ち寄りになってはいかがでしょう。
【参考・本文引用】
『新編日本古典文学全集51 十訓抄』 浅見和彦 校注・訳者/小学館 発行
『新編日本古典文学全集43 新古今和歌集』峯村文人 校注・訳者/小学館 発行
『新編日本古典文学全集4 日本書紀 3 巻第二十三 舒明天皇~巻三十 持統天皇』 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守 校注・訳者/小学館 発行
『別冊歴史読本52図説天皇陵 歴代天皇陵の歴史探訪紀』 新人物往来社 発行