※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2004年)
ホームページサービス終了により当ブログへ移動しました。
現況と異なる部分も含まれていることと思います。ご了承くださいませ。
斉明女帝の朝倉橘広庭宮と木の丸殿
![]()
“三連水車”のある街として知られる福岡県朝倉市は、福岡県の中央部にあるのどかな田園地帯です。
この朝倉の地に短い期間ですが、かつて天皇が住まわれたことがあったと伝わります。
660年(斉明6年)、東アジアでは唐・新羅軍が百済を攻略しました。朝廷は朝鮮半島へ百済救援軍を派遣することになり、指揮のため斉明天皇とともに筑紫へ赴いたのです。
斉明天皇こと宝皇女は、第35代皇極天皇として即位したのち、弟である軽皇子<孝徳天皇>に譲位します。そして孝徳天皇の崩御後、再び天皇の位に即いた女性です。後の天智天皇・天武天皇の母でもあります。
斉明天皇以下、朝廷の人々は、661年(斉明7年)3月、娜大津<なのおおつ=現在の福岡市>に至り磐瀬行宮(いわせのかりみや)に坐し、5月9日に朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)に遷ったのでした。
『日本書紀』によると、この朝倉橘広庭宮には、すでに百済での敗戦〔白村江の戦い:663年〕を暗示させるかのような記事がうかがえます。
<原文は漢文>
五月の乙未の朔の癸卯に、天皇、朝倉橘広庭宮に遷り居します。
是の時に、朝倉社の木を斬り除ひて、此の宮を作りし故に、神忿りて殿を壊つ。亦、宮中に鬼火を見る。是に由りて、大舎人と諸の近侍、病みて死ぬる者衆し。
朝倉橘広庭宮を作る際、朝倉社の木を切ったため神が怒り、宮殿を壊したといいます。
朝倉社は、恵蘇八幡宮もしくは「延喜式」神名の麻●良布(まてらふ)神社に比定されていますが、詳細は不明です。
(●=“氏”の下に“一”のある字)
また、宮中には鬼火が出たため、病気になって死亡者が多く出たとあります。そして・・・
六月に、伊勢王、薨せぬ。
秋七月の甲午の朔にして、丁巳に、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。
同年6月には皇族の伊勢王が薨じられ、7月24日には斉明天皇までが崩御されたのでした。
8月1日に、皇太子である中大兄皇子<のちの天智天皇>は、母である斉明天皇の柩に付き添い、磐瀬行宮<長津宮>へ戻ります。そこでもまた怪異が起こります。
是の夕に、朝倉山の上に、鬼有りて大笠を著て、喪の儀を臨み視る。衆、皆嗟怪ぶ。
この夕方、朝倉山<麻●良布(まてらふ)神社の背後にある東西に連なる山々>の上に鬼が現れ、大笠を着て喪の儀式を見守っていたのです!衆人はみな、アアッと不思議に思ったのでした。
5月~7月までのごく短期間の宮殿でありながら、『日本書紀』には怪異の多い宮として記されている朝倉橘広庭宮…。
その宮跡は明確にはわかっていませんが、福岡県朝倉市内と考えられています。
今回は福岡県朝倉市にある「橘の広庭公園」(朝倉橘広庭宮跡・伝承地)をご紹介いたします。
朝倉橘広庭宮跡?
橘の広庭公園
![]()
「橘の広庭公園」にある『橘廣庭宮之蹟』と書かれた石碑。
公園そのものは日本書紀に書かれているような、おどろおどろしい感じはしませんでした。
≪教育委員会による看板より≫
あさくらのたちばなのひろにわのみやあと
朝倉橘広庭宮跡
所在地 福岡県朝倉町大字須川
歴史・背景
4世紀末、朝鮮半島は百済・高句麗・新羅の三国に分割され、7世紀に至るまで和戦を繰り返していたが、660年7月、百済はついに新羅・唐の連合軍に亡ぼされ、同年10月、かつてから親交関係にあった日本へ使者を遣わし救済の要請をしてきた。斉明天皇と中大兄皇子らは、その要請を受け入れ、救済軍を派遣することを決定した。
翌661年1月6日、天皇は、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)、中臣鎌足らと共に難波の港から海路筑紫に向かい、1月14日四国の石湯行宮に到着し、3月25日那大津(博多)に至り、磐瀬宮(三宅)をへて5月に朝倉橘広庭宮に遷られた。しかし天皇は滞在75日(7月24日)御年68歳で病の為崩御された。
現在、朝倉橘広庭宮の所在は分かっていないが、地元の伝承では、「天子の森」付近だといわれており、本町恵蘇宿の恵蘇八幡宮の境内付近には、中大兄皇子が喪に服したといわれている「木の丸殿跡」や斉明天皇の御遺骸を仮安置したといわれる「御陵山」が存在する。
![]()
公園内には「橘(タチバナ)」が植えられていす。ちょうど実がなっていました♪
朝倉橘広庭宮跡<伝承地>の確認のため、長安寺を手がかりに1933年から数年にわたって遺跡の調査が行われたそうです。
≪「橘の広庭公園」内にある長安寺廃寺跡の案内看板より≫
ちょうあんじはいじあと
県指定史跡 長安寺廃寺跡
所在地 福岡県朝倉町大字須川字鐘突1271~1306
指定日 昭和38年1月9日
奈良~平安時代の古代寺院跡で、古くは朝鞍寺、朝闇寺と呼ばれていた。1933年の発掘調査から多量の須恵器、土師器、瓦などが発見された。また「大寺」「知識」「寺家」などの墨書土器が発見され、更にその後の調査から、建物の礎石が発見されたことにより、古代寺院の存在が確認されている。出土瓦は、老司式と鴻臚館式のものであり、8世紀前半のものと推測されている。
また筑前国続風土記の恵蘇八幡宮の条に「社僧の寺を朝倉山長安寺という……」と記されていることから、長安寺は恵蘇八幡宮と深い関係があったことが推測される。またこのことは続日本書紀に天智天皇が、斉明天皇の冥福を祈って観世音寺と筑紫尼寺を創建した、とあることから長安寺とは朝倉橘広庭宮の跡に営まれた筑紫尼寺のことではないかといわれている。
調査の結果、奈良~平安時代にかけてこの地に大寺院があったことが明らかになりましたが、朝倉橘広庭宮跡の確証は得られなかったそうです。
![]()
橘の広庭公園には「朝闇(ちょうあん)神社」があります。
≪教育委員会による看板より≫
ちょうあんじんじゃ
朝闇神社
所在地 福岡県朝倉町大字須川字鐘突1269
祭神 高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)
別名を大行事社(だいぎょうじしゃ)ともいい、祭礼は毎年9月14日に行われる。
近くには「朝倉橘広庭宮」「天子の森」「長安寺廃寺跡」があり、これらと関係があるのではないかといわれており、「朝倉」の地名は、この神社からきたものではないかとも考えられている。
また、この神社の境内に祀られた「毘沙門天堂」は現在も残っている。
さて。
中大兄皇子が母・斉明天皇の喪に服したという宮殿「木の丸殿(このまるどの・きのまろどの・このまろどの)」もまたかつて朝倉にありました。
≪『十訓抄』 上 可施人恵事 一ノ二 より≫
天智天皇、世につつみ給ふことありて、筑前の国上座の郡朝倉といふ所の山中に、黒木の屋を造りておはしけるを、木の丸殿といふ。円木にて造るゆゑなり。
~(略)~
さて、かの木の丸殿には用心をし給ひければ、入来の人、必ず名のりをしけり。
朝倉や木の丸殿にわかをれば
名のりをしつつ行くは誰が子ぞ
これ、天智天皇の御歌なり。これ、民ども聞きとどめて、うたひそめたりけるなり。その国々の風俗ども、えらび給ひける時、筑前の国の風俗の曲にうたひけるを、延喜の帝、神楽の歌ども加へられけるに、うたひそへられたりけるなり。~(略)~
「朝倉」にとりては、めでたき曲なり。昔よりかたみにゆづりて、上手にうたはせむとするなり。ことかき・すががきを掻くに、拍子ばかりをうちて、上下、臈をいはず、堪能のものにゆづりて、かれがうたふを待つなり。清暑堂の御神楽に、斉信、公任、本末の拍子をとられける時も付歌にて、定頼ぞ「朝倉」をばうたはれける。
『十訓抄(じっくんしょう・じっきんしょう)』は鎌倉時代に作られた年少者向けの説話集です。
この『十訓抄』には、天智天皇が母親である斉明天皇の喪に服していた様子と朝倉で詠んだ歌、そしてその歌が後世に素晴らしい・めでたい曲として伝えられた様子が描かれています。
(なぎ訳)
天智天皇が斉明天皇の喪に服していた時、朝倉の山中に黒木で建物を造っていらっしゃったのを「木の丸殿(このまるどの・きのまろどの)」といいます。刈りだしたままの丸太でつくっていたからです。
さて、その木の丸殿では用心をしていらっしゃったので、宮殿に入ってくる人は必ず名のりをしていました。
朝倉の木の丸殿に私がいると
名のりをあげていく人がいるが、あれは誰であろうか。
これは、天智天皇の御歌です。これを人々が耳にとどめて、歌い始めました。それぞれの国々の風俗歌を選ばれた時、筑前の国の風俗歌として歌われていたのを、延喜(えんぎ)の帝とよばれた醍醐天皇が神楽歌にお加えになり、歌われるようになったといいます。
「朝倉」という曲は、めでたい曲です。昔から互いに譲り合って、上手に歌わせようとするのです。「ことかき」や「すががき」などとよばれる和琴の出だしを演奏しながら、拍子だけを打って、身分の上下・年齢を問わず、堪能な者に譲って、その人が歌うのを待つのです。大内裏の豊楽院(ぶがくいん)にある清暑堂(せいしょどう)の御神楽で、藤原斉信・藤原公任が前半の拍子・後半の拍子をとられた時も「付歌(つけうた=神楽に添えて歌う歌)」として、藤原定頼がこの「朝倉」を歌われたということです。
・醍醐天皇<885~930>:平安初期の天皇。「延喜の帝」とよばれた。
・藤原斉信(ただのぶ)<967~1035>:平安中期の公卿。
・藤原公任(きんとう)<966~1041>:平安中期の公卿。
・藤原定頼(さだより)<995~1045>:藤原公任の子。
天智天皇の歌は、『新古今和歌集』第巻十七 雑歌中 にも収められています。
朝倉や木の丸殿にわれをれば
名のりをしつつゆくはたが子ぞ
福岡県朝倉市山田にある恵蘇(えそ)八幡宮は、「木の丸殿」跡といわれています。
次は、恵蘇八幡宮をご紹介いたします。
恵蘇八幡宮へ続きます。
ホームページサービス終了により当ブログへ移動しました。
現況と異なる部分も含まれていることと思います。ご了承くださいませ。
斉明女帝の朝倉橘広庭宮と木の丸殿
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/21/6aee4dac910e51c296449540f783d848.jpg)
“三連水車”のある街として知られる福岡県朝倉市は、福岡県の中央部にあるのどかな田園地帯です。
この朝倉の地に短い期間ですが、かつて天皇が住まわれたことがあったと伝わります。
660年(斉明6年)、東アジアでは唐・新羅軍が百済を攻略しました。朝廷は朝鮮半島へ百済救援軍を派遣することになり、指揮のため斉明天皇とともに筑紫へ赴いたのです。
斉明天皇こと宝皇女は、第35代皇極天皇として即位したのち、弟である軽皇子<孝徳天皇>に譲位します。そして孝徳天皇の崩御後、再び天皇の位に即いた女性です。後の天智天皇・天武天皇の母でもあります。
斉明天皇以下、朝廷の人々は、661年(斉明7年)3月、娜大津<なのおおつ=現在の福岡市>に至り磐瀬行宮(いわせのかりみや)に坐し、5月9日に朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)に遷ったのでした。
『日本書紀』によると、この朝倉橘広庭宮には、すでに百済での敗戦〔白村江の戦い:663年〕を暗示させるかのような記事がうかがえます。
<原文は漢文>
五月の乙未の朔の癸卯に、天皇、朝倉橘広庭宮に遷り居します。
是の時に、朝倉社の木を斬り除ひて、此の宮を作りし故に、神忿りて殿を壊つ。亦、宮中に鬼火を見る。是に由りて、大舎人と諸の近侍、病みて死ぬる者衆し。
朝倉橘広庭宮を作る際、朝倉社の木を切ったため神が怒り、宮殿を壊したといいます。
朝倉社は、恵蘇八幡宮もしくは「延喜式」神名の麻●良布(まてらふ)神社に比定されていますが、詳細は不明です。
(●=“氏”の下に“一”のある字)
また、宮中には鬼火が出たため、病気になって死亡者が多く出たとあります。そして・・・
六月に、伊勢王、薨せぬ。
秋七月の甲午の朔にして、丁巳に、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。
同年6月には皇族の伊勢王が薨じられ、7月24日には斉明天皇までが崩御されたのでした。
8月1日に、皇太子である中大兄皇子<のちの天智天皇>は、母である斉明天皇の柩に付き添い、磐瀬行宮<長津宮>へ戻ります。そこでもまた怪異が起こります。
是の夕に、朝倉山の上に、鬼有りて大笠を著て、喪の儀を臨み視る。衆、皆嗟怪ぶ。
この夕方、朝倉山<麻●良布(まてらふ)神社の背後にある東西に連なる山々>の上に鬼が現れ、大笠を着て喪の儀式を見守っていたのです!衆人はみな、アアッと不思議に思ったのでした。
5月~7月までのごく短期間の宮殿でありながら、『日本書紀』には怪異の多い宮として記されている朝倉橘広庭宮…。
その宮跡は明確にはわかっていませんが、福岡県朝倉市内と考えられています。
今回は福岡県朝倉市にある「橘の広庭公園」(朝倉橘広庭宮跡・伝承地)をご紹介いたします。
朝倉橘広庭宮跡?
橘の広庭公園
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/2a/88322c71ccaf88299a76a5e1291b90ea.jpg)
「橘の広庭公園」にある『橘廣庭宮之蹟』と書かれた石碑。
公園そのものは日本書紀に書かれているような、おどろおどろしい感じはしませんでした。
≪教育委員会による看板より≫
あさくらのたちばなのひろにわのみやあと
朝倉橘広庭宮跡
所在地 福岡県朝倉町大字須川
歴史・背景
4世紀末、朝鮮半島は百済・高句麗・新羅の三国に分割され、7世紀に至るまで和戦を繰り返していたが、660年7月、百済はついに新羅・唐の連合軍に亡ぼされ、同年10月、かつてから親交関係にあった日本へ使者を遣わし救済の要請をしてきた。斉明天皇と中大兄皇子らは、その要請を受け入れ、救済軍を派遣することを決定した。
翌661年1月6日、天皇は、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)、中臣鎌足らと共に難波の港から海路筑紫に向かい、1月14日四国の石湯行宮に到着し、3月25日那大津(博多)に至り、磐瀬宮(三宅)をへて5月に朝倉橘広庭宮に遷られた。しかし天皇は滞在75日(7月24日)御年68歳で病の為崩御された。
現在、朝倉橘広庭宮の所在は分かっていないが、地元の伝承では、「天子の森」付近だといわれており、本町恵蘇宿の恵蘇八幡宮の境内付近には、中大兄皇子が喪に服したといわれている「木の丸殿跡」や斉明天皇の御遺骸を仮安置したといわれる「御陵山」が存在する。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/57/420d72d117b1cfb69d5bd065088f18d7.jpg)
公園内には「橘(タチバナ)」が植えられていす。ちょうど実がなっていました♪
朝倉橘広庭宮跡<伝承地>の確認のため、長安寺を手がかりに1933年から数年にわたって遺跡の調査が行われたそうです。
≪「橘の広庭公園」内にある長安寺廃寺跡の案内看板より≫
ちょうあんじはいじあと
県指定史跡 長安寺廃寺跡
所在地 福岡県朝倉町大字須川字鐘突1271~1306
指定日 昭和38年1月9日
奈良~平安時代の古代寺院跡で、古くは朝鞍寺、朝闇寺と呼ばれていた。1933年の発掘調査から多量の須恵器、土師器、瓦などが発見された。また「大寺」「知識」「寺家」などの墨書土器が発見され、更にその後の調査から、建物の礎石が発見されたことにより、古代寺院の存在が確認されている。出土瓦は、老司式と鴻臚館式のものであり、8世紀前半のものと推測されている。
また筑前国続風土記の恵蘇八幡宮の条に「社僧の寺を朝倉山長安寺という……」と記されていることから、長安寺は恵蘇八幡宮と深い関係があったことが推測される。またこのことは続日本書紀に天智天皇が、斉明天皇の冥福を祈って観世音寺と筑紫尼寺を創建した、とあることから長安寺とは朝倉橘広庭宮の跡に営まれた筑紫尼寺のことではないかといわれている。
調査の結果、奈良~平安時代にかけてこの地に大寺院があったことが明らかになりましたが、朝倉橘広庭宮跡の確証は得られなかったそうです。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/83/bc81fd3b1f0541838b190db93fe61696.jpg)
橘の広庭公園には「朝闇(ちょうあん)神社」があります。
≪教育委員会による看板より≫
ちょうあんじんじゃ
朝闇神社
所在地 福岡県朝倉町大字須川字鐘突1269
祭神 高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)
別名を大行事社(だいぎょうじしゃ)ともいい、祭礼は毎年9月14日に行われる。
近くには「朝倉橘広庭宮」「天子の森」「長安寺廃寺跡」があり、これらと関係があるのではないかといわれており、「朝倉」の地名は、この神社からきたものではないかとも考えられている。
また、この神社の境内に祀られた「毘沙門天堂」は現在も残っている。
さて。
中大兄皇子が母・斉明天皇の喪に服したという宮殿「木の丸殿(このまるどの・きのまろどの・このまろどの)」もまたかつて朝倉にありました。
≪『十訓抄』 上 可施人恵事 一ノ二 より≫
天智天皇、世につつみ給ふことありて、筑前の国上座の郡朝倉といふ所の山中に、黒木の屋を造りておはしけるを、木の丸殿といふ。円木にて造るゆゑなり。
~(略)~
さて、かの木の丸殿には用心をし給ひければ、入来の人、必ず名のりをしけり。
朝倉や木の丸殿にわかをれば
名のりをしつつ行くは誰が子ぞ
これ、天智天皇の御歌なり。これ、民ども聞きとどめて、うたひそめたりけるなり。その国々の風俗ども、えらび給ひける時、筑前の国の風俗の曲にうたひけるを、延喜の帝、神楽の歌ども加へられけるに、うたひそへられたりけるなり。~(略)~
「朝倉」にとりては、めでたき曲なり。昔よりかたみにゆづりて、上手にうたはせむとするなり。ことかき・すががきを掻くに、拍子ばかりをうちて、上下、臈をいはず、堪能のものにゆづりて、かれがうたふを待つなり。清暑堂の御神楽に、斉信、公任、本末の拍子をとられける時も付歌にて、定頼ぞ「朝倉」をばうたはれける。
『十訓抄(じっくんしょう・じっきんしょう)』は鎌倉時代に作られた年少者向けの説話集です。
この『十訓抄』には、天智天皇が母親である斉明天皇の喪に服していた様子と朝倉で詠んだ歌、そしてその歌が後世に素晴らしい・めでたい曲として伝えられた様子が描かれています。
(なぎ訳)
天智天皇が斉明天皇の喪に服していた時、朝倉の山中に黒木で建物を造っていらっしゃったのを「木の丸殿(このまるどの・きのまろどの)」といいます。刈りだしたままの丸太でつくっていたからです。
さて、その木の丸殿では用心をしていらっしゃったので、宮殿に入ってくる人は必ず名のりをしていました。
朝倉の木の丸殿に私がいると
名のりをあげていく人がいるが、あれは誰であろうか。
これは、天智天皇の御歌です。これを人々が耳にとどめて、歌い始めました。それぞれの国々の風俗歌を選ばれた時、筑前の国の風俗歌として歌われていたのを、延喜(えんぎ)の帝とよばれた醍醐天皇が神楽歌にお加えになり、歌われるようになったといいます。
「朝倉」という曲は、めでたい曲です。昔から互いに譲り合って、上手に歌わせようとするのです。「ことかき」や「すががき」などとよばれる和琴の出だしを演奏しながら、拍子だけを打って、身分の上下・年齢を問わず、堪能な者に譲って、その人が歌うのを待つのです。大内裏の豊楽院(ぶがくいん)にある清暑堂(せいしょどう)の御神楽で、藤原斉信・藤原公任が前半の拍子・後半の拍子をとられた時も「付歌(つけうた=神楽に添えて歌う歌)」として、藤原定頼がこの「朝倉」を歌われたということです。
・醍醐天皇<885~930>:平安初期の天皇。「延喜の帝」とよばれた。
・藤原斉信(ただのぶ)<967~1035>:平安中期の公卿。
・藤原公任(きんとう)<966~1041>:平安中期の公卿。
・藤原定頼(さだより)<995~1045>:藤原公任の子。
天智天皇の歌は、『新古今和歌集』第巻十七 雑歌中 にも収められています。
朝倉や木の丸殿にわれをれば
名のりをしつつゆくはたが子ぞ
福岡県朝倉市山田にある恵蘇(えそ)八幡宮は、「木の丸殿」跡といわれています。
次は、恵蘇八幡宮をご紹介いたします。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/arrow_r.gif)