※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2009年)
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藤原高藤と宮道列子のロマンス>勧修寺
『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?
藤原高藤と宮道列子のロマンスの地
宮道神社
●所在地:京都市山科区勧修寺仁王堂町
●交通 :地下鉄「小野」駅下車 徒歩10分
勧修寺(かじゅうじ)の南に宮道神社(みやじじんじゃ)が鎮座しています。
宮道神社は、さまざまなご縁結びの願いを叶えてくださる神社だそうです。
宮道神社は、898年(寛平10年)に創祀され、宮道大明神または二所大明神とも称されました。
後世、宮道弥益と娘の列子、列子の夫である藤原高藤とゆかりの人々を合祀されました。
<御祭神>
日本武尊(やまとたけるのみこと)・・・宮道氏の祖神
稚武王 (わかたけのみこ) ・・・日本武尊の子
<のちに合祀された御祭神>
宮道弥益(みやじのいやます) ・・・胤子の外祖父
宮道列子(みやじのたまこ) ・・・胤子の母
藤原高藤(ふじわらのたかふじ) ・・・胤子の父
藤原胤子(ふじわらのたねこ) ・・・醍醐天皇の母
藤原定方(ふじわらのさだかた) ・・・三条右大臣
など、勧修寺ゆかりの人々
『小倉百人一首』 三条右大臣(藤原定方)歌碑
名にし負はば 逢坂山の さねかづら
人に知られで くるよしもがな
宮道神社のご祭神のひとりである藤原定方(ふじわらのさだかた)の歌碑が建立されています。
藤原高藤と宮道列子の間に生まれた次男・定方は、右大臣となり、邸宅が三条坊門小路の北面にあったため、「三条右大臣」と呼ばれました。
京都市山科区において勧修寺ゆかりの人物の墓・供養塔が伝わっています。
ゆかりの人々お墓参りへ続きます。
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藤原高藤と宮道列子のロマンス>勧修寺
『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?
藤原高藤と宮道列子のロマンスの地
宮道神社
●所在地:京都市山科区勧修寺仁王堂町
●交通 :地下鉄「小野」駅下車 徒歩10分
勧修寺(かじゅうじ)の南に宮道神社(みやじじんじゃ)が鎮座しています。
宮道神社は、さまざまなご縁結びの願いを叶えてくださる神社だそうです。
宮道神社は、898年(寛平10年)に創祀され、宮道大明神または二所大明神とも称されました。
後世、宮道弥益と娘の列子、列子の夫である藤原高藤とゆかりの人々を合祀されました。
<御祭神>
日本武尊(やまとたけるのみこと)・・・宮道氏の祖神
稚武王 (わかたけのみこ) ・・・日本武尊の子
<のちに合祀された御祭神>
宮道弥益(みやじのいやます) ・・・胤子の外祖父
宮道列子(みやじのたまこ) ・・・胤子の母
藤原高藤(ふじわらのたかふじ) ・・・胤子の父
藤原胤子(ふじわらのたねこ) ・・・醍醐天皇の母
藤原定方(ふじわらのさだかた) ・・・三条右大臣
など、勧修寺ゆかりの人々
『小倉百人一首』 三条右大臣(藤原定方)歌碑
名にし負はば 逢坂山の さねかづら
人に知られで くるよしもがな
宮道神社のご祭神のひとりである藤原定方(ふじわらのさだかた)の歌碑が建立されています。
藤原高藤と宮道列子の間に生まれた次男・定方は、右大臣となり、邸宅が三条坊門小路の北面にあったため、「三条右大臣」と呼ばれました。
京都市山科区において勧修寺ゆかりの人物の墓・供養塔が伝わっています。
ゆかりの人々お墓参りへ続きます。