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【PICK UP】 清原元輔(きよはらのもとすけ)とは?

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※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2004年)
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熊本に平安時代の歌人・清原元輔をたずねる>清原元輔とは?



清原元輔 (きよはらのもとすけ)

908年(延喜8年)~990年(永祚2年・正暦元年6月)

 平安時代中期の官人・歌人。
 歌人・清原深養父(ふかやぶ)の孫。清原春光の子。(一説によると深養父の子ともいう。)
 『枕草子(まくらのそうし)』を書いた清少納言の父。

 951年(天暦5年)、源順・大中臣能宣・坂上望城・紀時文とともに内裏の昭陽舎<梨壺>に設けられた撰和歌所(せんわかしょ)の寄人(よりうど)となり、初めて『万葉集』に訓点を付け、『後撰和歌集(ごせんわかしゅう)』を編纂する仕事に就いた。この仕事に携わった彼らを「梨壺の五人」という。
 また、元輔は、高貴な身分であった藤原実頼・藤原師輔・源高明などの邸宅に出入りして、和歌を詠むこともあった。

 『拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)』以下の勅撰和歌集に107首入集し、家集『元輔集』を遺す。
 百人一首では、以下の歌が収められている。

   契りきな かたみに袖を しぼりつつ
    末の松山 波越さじとは

(決して心変わりはしないと約束しましたよね。互いに涙に濡れた袖をしぼりながら、どんなに波が荒れようとあの“末の松山”を波が越えることがないように、私たち二人の心も変わりますまい…と。)


 従五位上肥後守に任ぜられ、都から遠く離れた熊本で990年6月に死去。83歳であった。



 『今昔物語』では、此ノ元輔ハ、馴者ノ、物可咲ク云テ人咲ハスルヲ役トスル翁ニテナム有ケレ
(この元輔は世慣れた人物で、おかしなことを言って人を笑わせることばかりするおじいさんだった)
と書かれ、
 また『宇治拾遺(うじしゅうい)物語』では、人笑はする事役にするなりけり
(折につけて人を笑わせるようなことをよくする人物であった)と書かれるような陽気な人柄であったらしい。


 ⇒ 驚愕!笑激!?清原元輔、賀茂祭で落馬!






【参考】
「日本史大事典」 平凡社 発行
「平安時代史事典」 角田文衞 監修/角川書店 発行


【本文引用・参考】
「日本古典文学全集24 今昔物語集 4」  馬淵和夫・国東文磨・今野進 校注・訳者/小学館 発行
「新編日本古典文学全集50 宇治拾遺物語」 小林保治・増古和子 校注・訳者/小学館 発行



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